昔~昔、そのまた昔…

大阪市都島にある 大阪市立総合医療センター と、その一帯のマンションなどが建つ広大な敷地は、その昔には国鉄の貨物駅があったところでした。

 


 

名称は 国鉄淀川(貨物)駅 と言って、昭和2年に開業した当時は水運が発達していた大川に面していて、大阪の中心部にも近いことから物流の要でもありました。

 

しかし、高度経済成長後は、物流が国鉄からトラック輸送に転換してしまったため、昭和57年11月15日国鉄ダイヤ改正 の前日に、ひっそりとその姿を消しました…

 

 



 

そして、私のアルバムから…

 

「国鉄淀川貨物駅」の最終日、夜の様子です。

 

一番踏切から撮影したのは、F職員お手製のヘッドマーク付き2358レ  吹田操車場行きコンテナ列車です。

 


     



 

そして、最終列車。

 

1364レ 吹田操車場行き車扱い貨物には、私お手製のヘッドマークが掲げられました。

(注/57年当時の淀川の入換機関車は二つ目DD13/安治川口は一つ目DD13でした。)

 


     

 

当時は9両もあるコンテナ車や、10両のハワムなどをバンバン 突放(とっぽう) していたという、今では考えられない光景が日常茶飯事でしたし、それに飛び乗ってブレーキをかけるのが仕事でした。



        

 

そして、こちらは物言わぬ貨物の行先を表示している 車票 というもので、貨車の横っ腹に差し込まれていました。

 


     

 

今はどちらの駅も現存していませんが、和歌山操車場から出発したこのコンテナ車は、阪和線 → 杉本町 → 阪和貨物線 → 竜華操車場(入換) → 吹田操車場(入換) → 淀川駅の順で回送されてきたのでしょう…

 

それと、赤丸は確か「空車回送」だったと記憶しています。





 

高松からのコンテナ車です。

 


     


 

当時は「瀬戸大橋」なんてありませんでしたから、一旦 宇高連絡船 に乗せられて、宇野線 → 山陽本線 → 吹田操車場(入換) → 淀川駅の順ですね!






 

さて、発送は別ですが、到着した貨物の車票はゴミでしたので、係員にお願いすればいくらでも貰えたのどかな時代でした…

 

もちろん、一般の人は構内には入れませんでしたが、私が大阪鉄道管理局に入ってはじめて配属された職場が、この「淀川貨物駅」でしたので、この地に来ると今でも当時の事が思い出されます…

 

しかし、配属してわずか7ヶ月で廃止されてしまいました。