甘露と言う宝 | Varahi のブログ

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チベット、ブータン等に伝わる瑜伽行者必携の如意宝珠、甘露、聖物等の説明、行法雑記など

 

 

最近外国の方からも質問などをいただくことが多くなりましたが、

正しく翻訳されないという意味でも誤解を招くことがあると思います。

しかし国内であっても

どうしても勘違いされている方が多くおられます。

 

甘露などだけで過大に期待してしまう方や薬と言う認識を持つ方などもいますが、

薬ではありません。

 

 

また、医療機関の治療の否定や妨害を行うものでもありません。

はき違えている方や過大に期待され、

一般世間で言われるパーワーアイテムや健康アイテムなどの謳い文句

とは違います。

慣れてもなじんでも、ただ試してみたり持っていても、

本当の意味で何もせずに、世間でいうような使い方や真似事をしても

何の意味もないんですね。

そのために依存するような方へお渡ししたり

進めることはありません。

 

この二元的観念の世の中で、あれこれ考えることや

過ぎ去ってどこにもない過去に苦悩したり考えること自体が

囚われを生むだけでむいみなんですね。

 

これは未来のことも同様です。

 

良くも悪くも費やし、今なすべき本来のことを誰もが見えなくなってしまいます。

 

そのために今なすこととして、食べることや遊ぶこと、欲しいこと

などの動きに持っていかれて流されてしまうわけです。

これは仕事でも同様です。

 

そのために本来は職なら職そのものになって、素材そのものとなって

行えといわれていたわけです。

今はそれがほとんどなく、ただこなす、手を抜いてでも

こなすだけになってい待っているわけです。

考えることは報酬やその用途や目的の方が先行するでしょう。

 

なので損得がどうしても強くなってしまう。

 

 

また教えなども本当の意味で学ばず、技術を得ても慣れるだけで

練ることも発展させることもしないことが普通になって来ているんですね。

 

教えなども覚えても保たず、行も何もしないものが甘露などを持たれても

自分の価値観以外は何の意味のないものにしてしまっているんですね。

 

 

中国などでは猫も杓子もと言うように何でもありで、

泥団子でも薬と言い普及させますが

多くの人は、肩書、経歴、つけられた価値などを見て判断し

欲したり大切にしたりします。

それでは無意味なことあんですね。

 

クンダリニーなどの物理的な行に依存し、逆に体を壊す方が多く

それらスクールでの訴訟大国に日本もなりつつありますが、

 

健康のためと言い規制が緩くなった途端にサプリメントが量販され、

どれをとっても全く効果のあるものはなく、合成のもののほとんどが

人の遺伝子や細胞の変異などが確認されたものも多く、

良くてそのまま排出されて終わるだけ。

それを固めるために、遺伝子組み換えのコーンスターチなどを使い

本末転倒であることすら伝えられることはありません。

 

 

甘露や聖物、宗教などに固執するだけで常識や医療機関を否定し嫌悪し、

それだけで治るなどと言うところはいまだに後を絶ちませんし、

医薬品でさえ名称だけ変えて使われているものもあります。

 

信じてしまう方の多さにも驚かされますが、

 

病気でも癖やカルマでも、自分が正しく学び正しく行い、

 

病気であれば、病気を理解し

医師の治療方針なども理解し、より安全で治る可能性の高いものを選択し、

食事や運動、薬の使い方などを守り、注意して行くでしょう。

 

いくら病気の原因を知ることができても、

憂いようが憂いまいが来るのであればどちらにせよ来ます。

将来野垂れ死にしないように励んで頑張っても、来る法則を

生まれながらに持っていればどちらにせよ来ます。

 

それらを無駄に考えて悩んでもその行為自体がそれらを早く招くための

考えになっているわけです。

 

病気にならないようにと注意し、食べ物やサプリメントや

運動に注意していても、

来る法則が働いているならば、何をどうしていても病気になります。

 

信じようが信じまいが、今なすべきことと言うものは、

二元的な注意とは違います。

 

それを煩悩やカルマ、癖、体質、なんと呼ぼうがどうでも良い。

 

文字や言葉になれば、その段階で真実はなく、

すべてが二元的にどちらかによる。

 

みな便宜上のものでしかないんですね。

 

その根底にまで精通した方に就いて学んで自らも掴んで

弟子となるわけです。

昔の職人さんは腕は良くても教えることは下手と言う方がほとんどでしたが、

掴んだものを文字や言葉にできないか、

文字や言葉が多くなるほど錯覚したり粘りができないために

多くは語らなかったわけです。

 

今ではマニュアルがあること自体が異常なわけです。

 

信じる信じない以前になぜ掴み実感しないのか?

 

教習所で覚えて慣れて、試験に通れば車の運転はできる。

何も掴んでもいない状態ですね。

心や思考の状態に左右され、抑制もできずに飲酒や暴走がなくならない。

そのためにお酒を提供しない、取り締まりを強化と言っても

減ることはないでしょう。

 

二元的な対応は何であってもどちらか一方になることはありません。

常に展開するこの世界に於いては不可能なんですね。

だから何もしないでは、これもすでに寄ってしまうわけです。

 

 

困っている方がいて、良く言ってつけ込む方は多くいます。

相手にもせずの遠ざかる方も多くいます。

 

厳しくも心配し話したり見守る方はどれだけいるでしょうか?

時には恨まれても構わないと本気で叱ったり励ましたりする方も

近くにいるのならそれこそ徳の、幸運のあると言う証拠なんですね。

 

しかし逆切れして犯罪行為に至ってしまうことが多くなっています。

受け取ることもできないのであれば動物のカルマとしか言いようにありません。

 

そういう運もなく都合で薬でもサプリメントでも、パワーアイテムや

食事であっても甘露であっても持ったり使って何になるでしょう?

 

ただの思い込みだけです。

 

ただ温めるだけ、できたものを買ってきて食べるだけ、

大切さを実感できるでしょうか?

 

どこの宗教でもヨーガでも本来はそうですが、

甘露などの説明の最後の方にある効能のように書かれているものは、

それらに効きますよと言う意味ではありません。

 

一つの試しとも言い換えられますが、

それを読み解けて持つ資格がある、問題を乗り越えられるともいえるでしょう。

 

少しだけ書いてみれば、癌やひどいアレルギーなどの病気とあれば、

体質はルンやティーパの異常、

ナーガ病などでもあり、瞋恚や慢、頓着や固執と言う煩悩も強いので、

怒りやいらぬことを考える癖を良く見つめ、知り、その働きを掴み

抑制していく。

そのために必要な教えやなすべきことを教えてもらう。

 

その煩悩を、カルマを変えることに励むのなら

能く手を貸してくれますよと言うような意味になります。

 

良縁ができますようにと言うのなら、皮肉やかげ口や悪口、

粗探しにあげ足取り、無駄話などが多くないか?

 

それを楽しんでいて本当の意味での良縁があると思えるでしょうか?

 

 

そのまま受け取り、癌などが治るんだ、良縁ができるんだと

受け取ってしまうなら、

教えも行も必要なく、資格もないということになります。

 

自重も抑制もできずに来る幸運は一時的なものです。

 

より大きな負債を生むだけなんですね。

 

海外の方であれば翻訳は相当間違いだらけになると思うので、正しく伝わることは

ほとんどないかもしれません。

 

専門の翻訳をされる方が訳されない限り

ヨーガのように間違ったものが正当化されてしまいます。

 

そのように正しく認識するか、祖師たちの意思のみに耳を傾けられて

生かすことができるんですね。

 

そうして、時には気づかせるためにブログでも紹介した病気の女の子のように

一時病状などが消えたかのように見せ、

最初で最後のチャンスを与えることもあります。

それでも自分の都合を選んだのなら結果はカルマや病気の通り

と言うことなんですね。

 

あくまでも自分たちがなさなければいけない事は、根底にある

癖やカルマ、煩悩として言われるプログラムの改善と変更です。

好き放題、思うがまま、自分の都合で変わるものは何もありません。

 

表面に現れている事件や事故や問題や悩み、病気などは、

根底にあるものが熟した結果などなんですね。

表面を治すことに専念しても、熟せばまた現れます。

 

そこに期待し効能と受け取る、受け取り方では、

古代の聖典など読んでもみな都合になるだけで、

教えがあっても都合で理解し、

都合の見方でしか動くことができないんですね。

 

どのような聖物であっても宝であっても、物理的行などでも

どんなに優れた薬があっても

上っ面だけでは何の意味もありません。

 

チベット本土でさえ浅くなってきています。

その他の国や文化や宗教などであれば、受け取り方も変わってしまいます。

本当の意味で理解されていただきたいと思いますが、

 

あくまでも甘露は瑜伽士のためにあるものがほとんどです。

 

一般向け、在家向けのものはほとんどが結縁や健康長寿や災難除けの

お守りのようなものです。

 

思考形態の変化が多い現代に於いて、そのようなものでも切っ掛けとして

進むというのであれば良いのかもしれませんね。

 

正しく示す師がいて学ぶ。

時にはそれを簡単には崩せないために、仕打ちと思われるひどいことを

されるかもしれません。

信じて頑張っていたのになぜと思うことも良くあります。

しかしそこで真意も読めずに考え上の信は信ではないんですね。

ただの都合なんです。

信とは心で持つものなんですね。

 

絶望的なことがあっても心で得ていれば、どんなことがあっても

それることも崩れることもありません。

 

それがない場合には、おごりや傲慢、卑屈、自分が絶対と言うことなんですね。

それは簡単には崩せないんです。

本人も気が付くことなく反発します。

 

師は、恨まれ打ことも、去っていくこともいとわずに、

叩き落し続けたりすることもあるわけです。

 

これができる師はもうほとんどいません。

 

一般の方ではまず耐えられないでしょう。

世の中のすべての悪も惨事も目の当たりし続けてきても、

学ぶことはせずに、宗教などに向く方がほとんどでしょうね。

 

そうして深い部分に進んでいく。

しかしそういう時代でおない。

 

そういう考えが日々減退していく現代では、

間違ったものや都合のものだけが残り

崩壊を選択するしかなくなっていくのかもしれないのかもしれませんね。

 

そうならぬように、何に於いても正しく見て思考できる者が

どの分野にも増えて行っていただきたいと思います。

 

それぞれが、各分野に於いて本当の意味で求道されることを願っております。

 

それらができて先にあるものが

クンダリニーやゾクチェンやマハームドラーなんですね。

それもなく、怒りや貪り、言葉の悪さや浅さ、楽しみを形に向けていれば

到底たどり着くことはできません。

やり方が完璧にそろっていても、善き師の祝福と祖師の意思によって

灌がれて進めることができるんですね。

 

自分の都合と言うものは自分では気が付くことはないんです。

それが感情を伴ったものならなおさらなんですね。