産休中のため、5〜6年ぶりにゆっくりお盆を過ごしています。
終戦記念日ということで、祖父母から聞いたエピソードを備忘録として記してみたいと思います。

戦地から生きて帰って来てくれた、二人の祖父に感謝を込めて。


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父方の祖父は、満州で戦った。
祖母とは婚約中だった。
一度秋田へ帰って来たものの、2度目の徴兵がかかり弘前へ出向いた際に終戦を迎えた。
土崎空襲で赤く染まった空が、二ツ井からも見えたという。

私がごはんや味噌汁を残すと、よく祖父に怒られた。
「戦争中は米粒一つが貴重だった。朝に味噌汁を飲まなかった兵士は、坂道を途中で登れなくなったものだ」と聞いた。
蜂の巣がごちそうだったと言い、懐かしそうに食べていた。

祖父は私が小学一年生の時に亡くなった。
お腹に大きな傷があったことを覚えている。
戦地で盲腸になり、麻酔なしで手術をしたという。

私が大人になってから、近所の居酒屋のマスターがこっそり教えてくれたことがある。
祖父は、酔っぱらうと「自分は戦地で11人殺してしまった」と話すことがあったそうだ。
生きるか死ぬかの状況だったにも関わらず、自分が奪ってしまった命の数を覚えていたことに驚いた。
死ぬまでずっと、良心の呵責を感じていたのかもしれない。

もし祖父が戦地で命を落としていたら、もし終戦がもっと遅れていたら、私はこの世にいなかった。
父も、私も、私の娘も存在しなかった。


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母方の祖父は、ラバウルで炊事兵をしていた。
長男(私の伯父)が産まれたばかりだった。
息子のために何としても生きて日本に帰りたく、自ら炊事兵を志願したそうだ。
お国のために死ねることが幸せだと言われていた時代に、本心を隠して志願したのだろう。

祖父は限られた食料で食事を作り、兵士を送り出すのが仕事だった。
送り出した兵士が戻って来ないのは、日常だったそうだ。

怪我をして帰ってくる兵士もいた。
上官からは「怪我をして戦えなくなった者より、これから戦いに出る者に食事を与えろ」と言われていたそうだ。

それでも、祖父は怪我をした兵士たちにもこっそりと食事をさせていた。
そうして生き残った人たちが、終戦後に日本へ帰ってくることになる。
「祖父のおかげで助かった」と感謝する人もいたそうだ。

帰国後、祖父と祖母は長男に加えて3人の子供に恵まれ、子供は4人になった。
私の母が末っ子だった。

祖父は、私の母が中学生の時に亡くなってしまった。
しかし、その後4人の兄弟から私を含めて8人の孫が生まれた。

そして、その8人の孫から、私の娘を含めて16人のひ孫が生まれている。
私のお腹にいる子で、17人目。
もし祖父が炊事兵を志願していなければ、もしラバウルから帰って来なければ、どれも存在しなかった命だ。


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お盆にお墓参りをする度、自分が生きている奇跡を感じます。
妊娠中の今年は、特に。


おじいちゃん、ありがとう。