映画物語(栄華物語のもじり)

映画物語(栄華物語のもじり)

「映画好き」ではない人間が綴る映画ブログ。
読書の方が好き。
満点は★5。
茶平工業製記念メダルの図鑑完成を目指す果てしなき旅路。

ひっそりと 記念メダル のページを移転しました。


胸を張ってあくまで映画ブログです。

★★★★☆

 結局あなたは5年間もなぜ刑務所にいたの? という話。

 

ハガレン入門

 ハガレンカフェなるものにいきましてね!
 
 
 早い話が記念メダルを購入するために訪れたわけなのだが、私はハガレン素人なので、コラボカフェに何の予備知識もなく訪れるのはあまりにも味気ないと思い、事前に予習することにしたわけである。その予習で鑑賞したのが、本作である。ハガレンは以前から非常に興味があったのだが、アニメシリーズを全て鑑賞するにはあまりにも時間が必要であるため、お手軽に観られる映画作品に手を伸ばしてしまったというわけである。安易な人間ここに極まれり。
 
↓ちなみにハガレンカフェではこんな感じのものをいただきました。すべてが冷めてました。
 
 で。
 何の予備知識もなく鑑賞したので登場人物が誰一人わからないし物語の背景も全然知らなかった。が、これがなかなか面白かったのでびっくりである。映画オリジナルストーリーに振り切って万人受けする内容にしたのは、公開当時に一見さんの客を獲得するためには有効だったのではないかと考える。個人的にはとても面白かった次第である。
 
 しかしながら。
 アマゾンレビューを見ると恐らくハガレンファンの方からの評価がなかなかに散々なものだったので、ハガレンカフェで「いやー映画はほんと面白かったですよね〜」とか知ったかぶったらボコボコにされるんじゃないかと思った。失言とは命取りになるものなのである。
 
 どうやらこの作品は第二期アニメシリーズの挿入話的な位置づけであるらしい。ただシリーズを通して鑑賞した人にとっては時間軸やら設定やらに矛盾を感じるらしく、「認めん!」という気持ちになるみたいである。
 
 またレビューの中で多かった意見に「ジブリっぽい」というのがある。なるほど、言われてみれば確かにジブリっぽいかもしれなくもないような気がする(どっちやねん)。舞台設定が「二つの大国に挟まれた崖の下の集落」とかその集落の様子とかは『もののけ姫』や『ラピュタ』を彷彿とさせなくもないかもしれない(どっちだよ)し、ストーリーとしても、「強大な力を手に入れるために争う」というところもまんま『ナウシカ』的なものを感じなくもないような気がしないでもない(しつこい)。
 
 ただいずれのことも、ジブリ映画にもハガレンにも何ら深い造形を持ち合わせていない私としては「言われてみれば、確かにな〜」程度しか思わなかったので、純粋に楽しめた次第である。楽しめてしまったというか。
 
 そんなわけで、以下はハガレンに対して何の思い入れもない人間がテキトーに書くレビューであることをご承知おきいただきたい。
 

大どんでん返しを狙いすぎちゃう症候群

 ストーリーとしては、国家錬金術師(理由は知らんけど偉いみたいね!)たる主人公とその弟が脱獄犯を追ってテーブルシティという街にいったら、隣国との戦争やら、隣国との間に掘られた深い崖とその底で生活を営む人たちのことやらを知り、アンニュイな気持ちになりながらも脱獄犯やら崖下集落のレジスタンスやら隣国との争いやらに首をツッコミつつ無事解決する話である(ミもフタもないあらすじ)。
 
 くどいようだが私は基本的には本作は面白かった。しかしながら、よくよく考えるとストーリーが強引なところやつじつまが合わないような気がするところなども多々あり、アマゾンレビューの「別の作品用に用意していたストーリープロットをハガレン用に置き換えたみたい」という意見になんとなく同意する感じである。ハガレン全然知らないけど。
 
 キーパーソンとして崖下集落のレジスタンスの一員である少女が登場する。で、脱獄犯は「この少女が捕まったことを知り脱獄をする」という設定で、脱獄犯は実はこの少女の生き別れた兄でした〜という流れとなるのだが、これが覆されるというどんでん返しが起こる。「実は少女の生き別れた兄でした」という点も意外性を狙ったのが見え隠れするのだが、それがさらにどんでん返しとなってまさかの赤の他人だったという流れなのである。
 
 で。
 
 そこまでどんでん返されると、なんか「今までの話はなんだったの?」感が生まれる人生の不思議(人生って不思議ね)。
 
 私の予想としては「この兄が実は今ではすっかり悪の思想に染まっている」というものだったのだが、その斜め上を行かれた。まさか「兄ですらない」というのは、確かに意外性のある展開ではあったのだが(兄であるなら回想シーンでの矛盾があるという伏線はあったが)、私の中では夢オチレベルの「なんじゃそりゃ」であった。そんなん言い出したら「両親も実は生きてた」とか言い出すんじゃないかと思った(ら、それに近いことが起こった)。
 
 しかしそうなってくると、この人結局5年間もどうして刑務所で身を隠してたの? という話になると思うのだが。そもそも身を隠す必要すらないじゃんと思うのだが、その辺は劇中で説明されてましたかね? 私が理解してないだけ?
 
 またラストでデデーンと正体が明かされた「本当の兄」の方は、「半殺しにされたけど父が隠し持っていた賢者の石を食べて命をとりとめた」という話なのだが、偽兄の目的はそれこそこの「賢者の石」であったので、二人の父母を殺害したときにもっとよく探せばこんな大ごとにはならなかったじゃんというツッコミをせざるを得ない。こんな大それたことをしなくても、欲しかったものはすぐそこにあったのである。それこそ5年間を無駄にしたと言わざるを得ない。隠し場所もいかにもな本の中だったので、錬金術の研究を盗み出そうという発想で襲ったのだから、それくらい見つけ出せよと思った私は可愛くない人だね!(おっさんだしね!)
 
という野暮なツッコミね、これ( ・∇・)うざ
 
 ストーリーを捻ろうとして一周回ってよくわからなくなっちゃった感じかしら〜。
 やっぱり意外性のあるストーリーというのは結構世の中に出尽くしてしまった感があるのかもしれない。クリエイターは大変な時代である。
 
 ちなみに原作者は本作のストーリーに一切関わっていないとのことを明記しておく。
 

ツンデレキャラが気になる今日この頃

 いろいろ書いたが、映画としてはなかなか面白かったと素直に思う。世界観も他のファンタジーな物語から一線を画すような精密なものであり、何より主人公とその弟をはじめとした登場キャラクターたちが魅力的であったので、それだけで面白かった。「鋼の!」と主人公を呼んでいたあのツンデレ男性はきっと女性に人気があるだろう。
 錬金術の発想もとても面白く、この力が使えたら何でもアリですな! と思ったところをどう細かい設定で帳尻を合わせているのかに非常に興味をもった。
 
 時間ができれば、ぜひテレビシリーズを第一期、第二期ともに観てみたいものである。「時間ができれば」と言ってその時間をちゃんと作り出した人を見たことがないけど。「行けたら行く」で来る奴なんてほぼいない的な。
 
↓何も知らずに観たのが逆に功を奏した例。そういうことって往々にしてあるよね。

 

今まで観た映画

 

人生が変わった一冊との出会い(重っ!)

 近藤麻理恵は私の人生の恩師である。

 これは誇張ではなく、事実としてそうなのだ。

 本著『人生がときめく片づけの魔法』を読んで、私の部屋は、事実としてとても綺麗になった。自分でもびっくりなのだが、事実なのだから仕方がない(どうでもよい仕方のなさ)。

 

 かつての私は床に物が散乱していてそれらを全て部屋の隅に寄せているような汚部屋に住んでいた。いわゆる「男の一人暮らしなんてそんなものだ」というステレオタイプの部屋だった。ゴミ袋が山積みで部屋が埋もれるなんてことはないものの、とにかく物が多かったし、もちろん整頓もできていないかった。ペットボトルがめっちゃ溜まっているような台所であった。

 

 しかし今では、部屋でビリーズ・ブート・キャンプができるくらいすっきりとした空間となっている(古い)。なんなら部屋の中でリフティングもできる(そして失敗してボールが本棚に飛んでいく)。

 

 ちなみに本著は、8年くらい前に実は一度読んでいる↓

 

 今回読んだのは、上記の「改訂版」ということだそうで。「そうで」なんて言っているのは——100%予想していたことだが——この「改訂版」で何が改訂されたのかはまったくわからなかったからである。絶対わからないだろうと思いながら読んで、やっぱりわからなかった。私の確信は外れない(ダメな方面で)。

 

 しいていえば、書かれた時代が「ガラケー」でありそうな表現がちょっとあるのだが、それを打ち消すかの如く後になって「アップルの箱」なる物が登場したことくらいである。「携帯電話の説明書類はかさ張るので捨てましょう」という話がある一方で、そんなものとはまったく縁のない「iPhoneの箱ときめく〜」的な話が出てくるので、その辺が改訂されているのかもしれない。

 まあ正直、部屋を片付けたい人が読む分には改訂版であろうとなかろうとどっちでも良いのではないかと思われる。出版社が変わっているので、大人の事情的なものを感じる次第でございます。

 

 今回改めて読んでみて、さっそくいろいろと物を捨てたくなった。この衝動は抑え難く、読んでいる途中からソワソワし始めてしまって、半分くらい読んだところでどうにも我慢できずフットサル関係の衣類を結構捨てた。ときめかないものはどんどん捨てた。ついでにこまごましたものもかなり捨てた。その数45リットルのゴミ袋4袋分にもなった。ただ一点注意をするならば、物を捨てると気持ちが爽快になり、やがて「捨て魔」になってしまうことには気をつけた方がよい(もちろん「ステマ」に掛けたギャグだ!)。便秘が解消されるように、ゴミの日にパンパンに詰まった大量のゴミ袋を出したときの爽快感はやみつきになる魔力を秘めている。いずれはそれを自重するマインドも必要になってくる(この辺のことは第2巻に書かれている)。

 

 前回読破した時から身に付いた「ときめかないモノは所有しない」という感覚は今でも結構残っていて、基本的には私の部屋は綺麗である。まず物が増えることを極度に嫌がるようになる。そのため、余計な物をあまり買わなくなる(買うけど)。それと同時に、自分の意思とは関係ないところで物が増えそうな場面に遭遇すると(お土産をもらうとか参加記念品があるとか)、その場でそれを残すかどうか考えるようになる。お土産をあげる方としたらなんて嫌な奴なんだと思うことだろう。でもいらないんだからしょうがない(鬼畜)。

 

 基本的には、自分で選んで気に入って手に入れた物以外は邪魔になってくる

 

 そうした判断の中で暮らしていても、いざ片づけをしようと奮起すると上記のように捨てる物が結構出てくるものである。しかし、それはかつての状態とは比べたら微々たるもので、かつ、片づけをするのも全然億劫ではない。それくらい簡単に終わるし、何よりやっぱり物が減るのは快感なのである。その快感を知っているので、物を捨てることに抵抗がないのである。もらったその日に捨ててしまうお土産とかも正直あって、その辺は人としてどうかと思うのだが。だってときめかないんだもん(ぶりっこ風に)。

理想やゴールがないダイエットは沼である

 そんなわけで、「人生が変わった」というのは決して大袈裟ではない。事実として、まず部屋が綺麗になり、8年くらいそれをキープし続けている。時折クルマのパーツ等で部屋が埋め尽くされる場合もあるが(特殊か?)、決してそのまま放置しようと思うことはなく、すぐに片付けるわけにはいかない事情があろうと「どうにかして元の状態に戻すんだ!」という強い決意が常にある。

 

 そもそも、この「元の状態」というものが自分の中に生まれたこと自体が、人生の転換であったと考える。戻すべき状態があるからこそ、どれだけのモノを片付ければよいのかがわかるのである。

 こんまり先生(の本)に出会うまでは、それがなかった。「せめて床が見えるくらいに片付けたい」と漠然と思っていたくらいで、ではそのためには当然「いらない物を捨てる」という思考が必要なはずなのに、考えることは「どこにしまおうか」ばかりなのである。結果、収納のためのグッズやカラーボックスを買ってきて、またモノが増えるのであった。

 

 戻るべき「元の状態」がないから、片付けというと「収納グッズ」という物を増やして、ためらいなく部屋を膨張させてしまうのである。

 

 で。

 この「元の状態」というのは、「あるべき姿」とも言い換えられる。あるべき姿を作り上げることが「片づけ」なのかな、と個人的には思った次第である。

 

 そしてこれは、マジな話、片づけ以外のところでも思考に影響するようになった。たとえば仕事で利害関係が絡まり合って話し合いが紛糾しゴチャゴチャした感じになってきたときに、「本来の目的(意図)は何だったのか?」という点によく立ち返るようになった。あるいは「問題の源泉は何なのか?」ということを突っ込むようになった(そしてこれは結構嫌われる。なぜなら正論だから。言い方には気をつけなければならない)。

 

 つまり、物事を取り巻いているあらゆる付加的要素を取り除いていき、根本には何があるのかを考えるようになった。それこそ、目の前にある物を一つ一つ手に取って「ときめくか、ときめかないか」を確かめ選り分けていくかのように。このように書くとまるで私がいつも真実に辿り着くコナン君にでもなったかのような話に聞こえるが、もちろん実際はそうではない。そうではないが、少なくてもそうしようという意識が芽生えたということである。

 

 そんな私はもちろんiPhone派である。多機能が売りの高性能アンドロイド機ではなく、同じ値段で明らかに性能が低くやれることも少ないiPhoneに魅力を感じるのは、「余計なことはやらんでええ。このど素人が!」と言わんばかりのアップルのやり方にハマっているからであると思われる(ひどい言い草)。やれることを増やすのではなく、魅力的なモノだけを厳選する姿勢がiPhoneという形になっているのだ。アンドロイドだったらこんな苦労しないのにとよく思うのだが。パソコンからファイルを送ろうとするだけでなんでこんなに苦労しなきゃならんねんクソだなとWindows育ちの私はよく思います。プロキシで例外設定をするのにわざわざpacファイルを作成しなきゃならんなんて、Windowsパソコンに慣れ親しんでいると「うがーっ」と二つ折り携帯にしてやりたくなるほどのめんどくささであることよ。

 

 しかし、ただ機能を足していくだけだと、結局使わない機能が大量に出てくるだけだというのは携帯電話に限ったことではなく誰もが経験していることではないだろうか。それよりも精選された良い機能だけを提供してくれる方がユーザとしては明らかに楽なのである。iPhoneはそうした方向性を目指していて(最近はどうかな〜? と思うが)、片づけによる効能も実はこうしたことに近い。持っている物を把握できていて、しかも全てがお気に入りといういわばiPhone状態なのである(最近のiPhoneはどうかな〜? と思いつつ)。

 

 片づけをすると自然とやせるらしいが(こんまり談)、ダイエットでも結局は「理想の体型を実現する」という最も重要でありながら忘れられがちな点が抜けると、とても辛いものとなる。自分が理想とする体型が過去にあった人と、そういったイメージがもてないまま漠然と「痩せよう」という意識だけで取り組んでいる人とでは、やるべきことが具体的なイメージとして自分の中に湧くか湧かないかの違いが生まれるのではないだろうか。その違いが苦しさの度合いに直結すると思われる。

それでも言うことをきかない反抗期な私

 しかしだからといって、こんまり先生が述べるすべてのことをウェルカムで受け入れられているわけではなかったりする。事実、全てを実践しているわけでもない。
 
 例えば、靴下の収納の仕方の項で「ゴムを裏返してまとめていると、なんだか靴下が『苦しい』と言っているような気がしませんか?」みたいな言葉があるのだが
 
いや、しません
 
 と思う私は余裕でゴムを裏返して二枚をまとめて収納している。そして収納の中でコロコロしていていわゆる「可哀想な状態」となっている。
 これはこんまり流の靴下収納術である「二枚を重ね、丸めて立てる」というワザを実践してみてやっぱりやめた結果でもある。私の扱い方が雑なせいですぐにバラけてしまうのである。扱い方が雑なのがいけないんだともちろんわかっている。が、靴下を大切かつ丁寧に扱うことは私にとってものすごくストレスであることがよくわかったので、やめたのである。洗濯物を畳んでいざ持ち運ぼうとしたときに「簡単にバラけてんじゃねーよ!」とイライライライラしてしまうストレスを抱えるより、心穏やかに日々を過ごす方を選んだ(器が小さいだけ説)。
 
 靴下は一例であるが、基本的に衣服の畳み方は幼い頃からのやり方を変えていない。ただもちろん、「モノは立てて収納する」というこんまり流収納術は論理的な面で共感している。共感しているというか論理的な思考で「まあそりゃそうだろう」と思うので、こんまり先生と出会う前から実践していたことでもある。上に物を重ねると下の物が見えなくなるし取り出すのが億劫になるなんてのは摂理であるといえる。そしてその結果、下の方にあればあるほどその存在を忘れていってしまうのも「まあそりゃそうだろう」と「だって、人間だもの」レベルで思う次第である。
 
 そうしたことを、こんまり先生は最初に「下の服が苦しそうではありませんか?」という切り口から入るので、この点は賛否が分かれそうなところである。私はこんまり先生が好きなのでこんまり先生が言う分には全然OKなのだが、現実世界で特に親しくもない女の子からちょっと困り顔の笑顔で同じことを言われたらうざっ!きもっ! と思うと思う。いや、正直な話。
 
 この辺の話と同じ地平線上で、「家に『ただいま』と挨拶をする」「バッグの中身に『今日も支えてくれてありがとう』と声をかける」等といったアニミズム的な要素はまったく実践していないといってよい。私は「物が苦しそうだから」という理由で重ねないのではなく、立てて収納した方がただ単に見やすいし取り出しやすいからという理由で立てている。私の中の理念としては、トヨタ生産方式の「手間が増えることを嫌う」ということの方がかなり近い。
 
 ただ、物を大切に扱うことはその性能を最大限に引き出すことに繋がるとは考えている。いろいろ話しかけちゃうのはその延長線上にあることなのかな〜と思ったりらじばんだり。極めると話しかけたくなってしまうものなのかもしれない。私もそのうち記念メダルに話しかける日が来るのかもしれない
 
 私は正直、この乙女チックな感性のところで合わない点が多かったのだが、そこはまあ重要じゃないかな〜と割り切っている。それよりも大切なことを教えられたと思うのである。
 

ときめきメモリアル(まとめ)

 多分に我流なところが含まれてはいるもののこんまり流片づけ術を実践して実感したのは、「捨てるのが終わった時点で9割5分は片付けが完了している」ということである。「捨てられたのに収納はできない」なんて人はいないのではなかろうか。
 収納方法なんかに凝らなくても全然収まるくらいの物量になるので、自然と単純でシンプルな収納法に行き着くと思う(収納はシンプルで良いとは本著内でも述べられている)。で、その捨て方における基準——すなわちときめくかどうかという方法を授けてくれたことが本著ひいてはこんまり先生の最も大きな功績であると考える。
 
 本著内でも言及されているが、一般的な整理整頓のハウツーでは「2週間使わなかったら捨てる」とか「1年間着なかった衣類は捨てる」等の「合理的な基準」をもって捨て方を指南する。ただこの決め方であると感情がないがしろにされているところがある。そして人間という生き物は、感情をおろそかにすると結構面倒臭いことになるのではないかと危惧する。
 
 たとえば上記の例でいえば、「1年と3ヶ月後に突然必要になった!」みたいな場面に遭遇すると(実は実際にたまにある)、「あの基準間違ってるじゃん!」と基準そのものにケチをつけたくなる。これはある意味では「人が決めたこと」に従っている部分が大きいからである。
 
 一方で、「ときめくかときめかないか」という超乙女チックで曖昧な基準で判断することは、自分で判断することを余儀なくされる。これは感情の上では非常に大きい。たとえ後悔することがあっても、自分で決めたんだからしょうがないという帰結となる。「何でもかんでも人のせいにする人はそうやったって絶対人のせいにする」と思うかもしれないが、捨てるか捨てないか(ときめくかときめかないか)の判断を繰り返すうちに、自然と自分の判断に責任をもつマインドが育っていく——というのは本著内でこんまり先生が述べていたことなのだが、本当にそうだなと思う次第なのである。人のせいにする人は、自分で判断せず人に決断を委ねるクセが大なり小なり染み付いているところがあるのではなかろうか(「ねえ、どうする?」とか聞く感じのやつ)。
 
 そういう意味でも、こんまり流片づけ術は私の人生を変えた。
 収納方法とかは結構どうでもよくて(ひどい言い草)、こんまり流の捨て技術をとおして私は変わったのである。自分でさっさと決断を下せるようになったと思う。たまにそのスピードが合わなくて人から嫌がられたりすることもあるが。
 
 人生がときめくものになったのかどうかは定かではないのだが、間違いなくいえることは、この「自分の変革」と、何より家でいろいろなことができるようになったということである。散らかっているときは、家で何かをする気になれなかったからね〜。ぼーっとテレビを観ながらいつの間にか寝る、みたいな。
 
 このようなわけで、こんまり先生は私の人生の恩師なのである。なんだか今いろいろと炎上しているようであるが、私はこんまり先生のオンラインショップではなにも購入することはないだろうが、これからもずっと活躍してほしいことは真に思っている。
 
↓出会った頃はお互い独身でしたが、お互い歳をとりました(何目線?)。

 

今まで観た映画

★★★☆☆

 私の「フェミニズム」、という話。

 きちんと言い切っているところ、田嶋陽子LOVE。

 

たけしのTVタックルをいま見返すと

 田嶋陽子を知る人の多くは、「たけしのTVタックル」という番組で知った人が多いのではないだろうか(逆にいうと、現在の20代までの若者は田嶋陽子のことを知らないのでは)。「TVタックル」の印象で田嶋陽子について思い浮かぶのは、「おじさんたちにギャーギャーかみつく」「人の話を聞かない」「しかめっ面」そして奇譚なきことを言わせてもらえば「ブサイク」であるのではなかろうか。
 
 「フェミニズム」についてあまり深く勉強していない私のようなものにとっては、「フェミニズム」は田嶋陽子が発祥であるといえる。もっといえば「フェミニズム」=「田嶋陽子」ですらある。だから——上記の条件をふまえ——「フェミニズム」と聞くと「モテない女が何でも男の優遇に噛みついて屁理屈こねている。そんなに男女差別に噛みつくならそこら中の店が実施している『女性プラン』という女の優遇にも文句言えよ」というイメージを抱く。
 
 しかしながら、現在の価値観というか、世の中のコンプライアンスの意識の高まりをもって「TVタックル」全盛の動画を見直すと(YouTubeにいっぱいあるけど、違法アップロードっぽいから観たい人は自分で検索して観て)、舛添やらハマコーやらの田嶋陽子に対する発言はマジでセクハラだし、恫喝とも取れるような罵声や物言いでパワハラだし、おじさんたちの方が理屈vs理屈の勝負ではなく「女(そしてブス)は黙ってろ」みたいな意識のもとでめちゃくちゃなことを言っていて、田嶋陽子はそれに怯まず応戦しているという構図であることがわかる。
 おっさんたちが失礼な物言いをしてくるもんで(言い方含め)、応戦する田嶋陽子も強い口調となり、そのときの歪んだ顔をカメラに切り抜かれ、ダイジェストのようにまとめ編集され、あのしかめっ面で吠える田嶋陽子が出来上がっているのである。
 
 そしてまったくの余談であるが、たけしも最後にまるで全知全能の神のように静かに場の議論を総括し分かったようなことを言っているが、結構浅〜いことしか言っていなかったことがよくわかる。
 
 SNSや個人メディアの発達によって近年取り沙汰されるようになった「メディアの悪意」のようなものを非常に感じる次第である。田嶋陽子のしかめっ面は、メディアの切り取りと編集によって作られたイメージである面が少なからずあるのではないかと思う。ついでにいえば、たけしの「良識ある人間感」もね〜(飲酒運転に不倫に出版社襲撃首謀者)。
 

家事は賃金換算したらいくらなのか

 実際の田嶋陽子は、まず、非常に情熱的な恋愛をしていることが本著の中で語られている。「モテない理屈っぽいブス」というイメージとはかけ離れた、非常に人間味溢れる恋愛をしている。恋で悩んだり、何なら好きであるがゆえに男に振り回されたりしている。バツイチ子持ちの外国人男と付き合って。
 
 前述したような「フェミニズム」のイメージでもって田嶋陽子を見ていると、そのギャップに異様にかわいく感じてしまう次第である。田嶋先生も男に振り回されたり恋に悩んだりすることがあるのかと。
 世の中の「フェミニズム」のイメージでは、極論をいえば「男なんかいらない」みたいな女性が声高に「フェミニ、フェミニ( *`ω´)」と唱えるイメージがあるように思うので、そうではないということを暗に言っているのかもしれない。
 
 田嶋陽子が語る「フェミニズム」とは——単純な話でそりゃそうだろうということなのだが——要するに「男女同権」ということである。ただここで「じゃあ、『女性プラン』とか『レディースデイ』にも文句を言えよ! 男差別じゃないか‼︎」という話を持ち出すのとは次元が違う「男女同権」なのである。田嶋陽子は恐らく「男性プラン」があろうと「メンズデイ」があろうと一切文句を言わないだろうし、自分の彼氏がそういった割引サービスを活用してもまったく気にしないと思う。たぶんだけど。
 
 田嶋陽子が本著の中で語るのは、「社会の構造的に女性の労働を搾取する仕組みがある」という話である。その最たるものが「家事労働」である、と。
 
 この点については、単純に考えても「そりゃそうだろうな」とおっさんの私も是非もなく納得するところであるのだが、単純な話ではなくかなり詳しく書かれているので、以下拾い切れていないかもしれない。
 
 まず、世の中には「家事は基本的に女性の仕事」という前提があることの問題を指摘する。この問題は根深く、男が大なり小なりそう考えているというだけでなく、女もその前提を意識・無意識に関わらず受け入れているところに問題があるという。
 
 「お互いが良けりゃそれでいいじゃん」という話になってしまいそうなのだが、問題は結婚した(あるいは一緒に暮らす)個人的な男女間だけの問題に留まらず、そうした概念が社会における男女の格差にも影響を与えているという点がいかん! と田島先生は怒っているのである。
 
 つまり「私は家事が好きだから全然いい。働きたくないし」という女性がいたとして、そう言ってるんだからそれでいいじゃん——というミニマムな話なのではなく、「『家事労働』は女の仕事」という社会通念があるせいで、会社の労働現場にしても、その他のあらゆる社会上の場面においても「男が主役で女はサポート」みたいな構造を自然と作り上げてしまっている、ということを言っているのである。
 
 で、そうなってしまう最大の問題点が「家事労働」が無賃労働だから、だというのである。無賃労働——つまり、価値が低いという潜在意識を植え付ける。「お金には換えられない尊い行為」という考え方は、いわゆる「やりがいの搾取」であるということをいっている(たぶん)。それこそが「愛という名の支配」なのだ! と。
 
 「大切な人(夫だけに限らず、子供も含めて)のために尽くしたい」という気持ちを利用して、あるいは従事者自身が自分を納得させて、女を「家事労働」というタダ働きにせっせと勤しませる構造がある。そして、そうした構造が巡り巡って結局は社会全体にはびこり、女性の社会における地位を低くしている。つまり、「お茶汲みとかコピー等の雑用は女の仕事」というのが当たり前にまかり通っているのは、結局は「家事労働は女のタダ働きが当然」というところが出発点なっているという問題提起である。
 
 これはむしろ専業主婦等のまさに「家事労働を無償でおこなってきた人たち」からこそ反発を受けそうな理屈である。なぜなら、自分が従事していきたことを否定する理屈でもあるからだ。
 家族のために尽くし、家事に従事することを誇りに思っている人ほど受け入れられないだろう。「あなたみたいな人がいるから、女の社会的地位が低いままなんだよ」と田島先生にしかめっ面で怒られているようなものである。
 
 でもね。
 
 
 やっぱりそうなのかな、と男の私も思ってしまう話であったりする。
 
 
 たとえば、私はもう30半ばを過ぎたおっさんで社会人経験も余裕で10年を超えるわけだが、他社を訪問した際に男性からお茶を出されたことは一度として、ない。この「お茶を出すのは女性の仕事」という日常で気に留めないような概念の源流を探っていくと、「家事は女の仕事で無賃労働」という社会通念に行き当たるような気がするのである。
 例えば、「お茶汲み、一回500円」となったら、男もこぞってやりたがるかもしれないとも思うし、「お茶汲みだって立派な仕事」として認識されるかもしれない。職場における無賃労働の家事的雑用も、家庭と同じように、自然と女性の方に流れてゆくのは根底には女性の無賃労働(家事)を土台とした社会の構造があるのではないだろうか。そしてそれを女性側も受け入れてしまっているかぎり、女性が土台を支え(サポート)、男が活躍する(主役)という社会構造は変わらないわけである。
 
 女性が主役が活躍する舞台に躍り出るには、スーパーな力が必要となる。事実、現在の社会はそうなっているじゃないか、と述べる田島先生なのである。その「スーパーな力」とは具体的には「家事労働」+「男と同等の仕事力」というわけで、男と同じ舞台に立つだけでも、男より余計な力が必要となるということを問題視している。

くどい

 本著の欠点は、「同じことを延々と繰り返し述べている」という点に尽きる。途中までは非常に面白いのだが、だんだん読むのがしんどく重くなっていく。食傷気味となる。
 
 本著の構成は、この「女は男と同じ舞台に上がるだけで相当な努力と男以上の労力が必要な上、当然上がってからが本当の戦いとなるという点で、不利であるし搾取されている。」ということを述べるためのエピソードや例え話が何度も繰り返されるものとなっている。怒りにふるえて文句を言う人は同じことを何度も述べる傾向にあるものだが、まさにそれに通ずるくどさを感じざるを得ない。田島先生は怒っているのである。きっと。

我が身を省みて

 現代では、例えば子育てに関していえば、すべてを奥さんに丸投げしようなどと思っている男の方が少数派であると考える。多くの男性諸君は自分も子育てに参加したいと思っているだろうし、奥さんのことを出来る限りサポートしたいと考えているだろう(実際にできているかは別として)。
 
 家事全般についても、少なくない男性諸君が、自分にできることがあればなるべくサポートしようと考えているだろう(できているかは別として)。そして日常の家事において夫側に決められた家事が割り振られていてそれをきちんと遂行していれば、妻からは「うちの旦那さんはちゃんと家事をやってくれる優しい人なんです」とのろけてもらえることだろう。
 
 上記の点は少なくても昭和における日本と比べれば(男も家事をすべきであるという価値観においては)格段に進歩した点であろうし、喜ばしいことであるといえる。
 
 しかしながら、いずれの場合も結局は男はお手伝いで、女が家事の主役という構図であり、田嶋陽子はこの構図が根付いている点を問題視しているわけである(私もくどい?)。男女平等だというのなら別にこの構図が逆だって良いわけだし、もっと厳格に分担できるものでもあるのではなかろうか、と。この構図があるから社会においても女性の役割が〜……というのは前項までで述べてきたことなので省略。
 
 個人的には、会社内の仕事に置き換えて考えてみると、厳格に半々に役割を分担することは意見衝突が頻発することが予想されるので(どちらかに偏りがいった瞬間すぐ衝突する)、不公平感が一切ないように家事の役割分担をすることは不可能ではないかと考えている。
 しかしながら、じゃあ主導するのが男であってもよいじゃないかという意見には、反論する術をもたない。
 
 田嶋陽子の価値観でいえば、「男が家事を主導する家庭と女が家事を主導する家庭が平均すれば半々になる」という世の中になれば、恐らく文句はないのではないだろうか。そういう世の中になれば、お茶出しをする人も男であったり女であったり、性別が固定されることもなくなるんじゃないのという話なのである。たぶん。
 
 こうした「役割分担」の話をすると、恐らく「男は外で稼いできて、女は家のことをやる。それが役割分担だ」と述べる人が出てくるだろうことは容易に想像できる。特に奥さんが専業主婦であるなら、きっと大なり小なりこのような考えをもっている男性諸君は少なくないと予想する。
 
 しかしね。
 
 食わせてもらうことだけを条件に無賃労働に従事させられるなら、それは奴隷と一緒なんですよという田嶋陽子の言葉に、私はハッと目が覚まされた想いなのである。ああ、確かにそうだな、と。食うものだけを保証されてタダ働きさせられる存在といえば、奴隷だな、と。
 
 ただ一点、個人的に決定的に難しいなと考えることは、子供を産むことは女性にしかできないという点である。「だから子育ての中心を担うのは女であるのが当然」なんてことは思わないのだが、女性の心理としては「産んだ自分が中心となって子育てをしたい」と思うじゃないかな〜と考える。そういう意味では、「産む以外のことは男も全部できるじゃん」という正論は、正論ではあるが、実際の問題とは微妙にズレがあるような気がするのである。極端な話、じゃあ夫が産む以外のことを全部主導しようとしたら、女性は嫌な気持ちにならないのだろうか。それこそ家事と違って「オムツ交換はあなたで、ミルク(母乳)をあげるのは私ね」なんて厳格な線引きはきっと不可能で、主導する者が手が回らないとき(あるいは、こと)にそれを補う形でサポートするという流れにどうしたってなるのではないだろうか。
 
 田嶋陽子の話を飛躍させれば、他ならぬ女性自身が当然のように子育ての中心を担うのは自分だという意識をもっていることが現代社会のよくないところであるといえるのかもしれないが、そうした理屈を超えて、やはり「妊娠」「出産」というのは神秘的なもので、母となる女性もやはり神秘的な存在なのではないだろうか。というか単純に、私は男というか汚らしいおっさんであるのだが、もし自分が我が子を出産したならば、やはり自分が主導して子育てをしたいなぁと考えるような気がするのである。産んでもねーし産めるわけもねー奴が想像だけで言っているのだが。
 だって、自分が産んだんだもの。自分の体の中から、10カ月間の苦労と慈しみと、そして出産の苦しみの果てに。
 
 では、私のこうした考えがもしもそんなに的外れなものではないとしたら、男はやっぱり「じゃあ家事は全部僕がやるね!」的な勢いでやることこそが、本当は「共に子育てをする」ということなのではないかと思うのである。個人的には。
 逆にいえば、オムツ交換やミルクをあげることだけを手伝っていても、共に子育てをしているというレベルには全然達していないような気がするのである。
 
 そういうことよりも、奥さんのご飯を毎食作ってあげられたら、かなり子育てに貢献していることになるのではなかろうか。奥さんの負担を減らす→結果的に子供のためになる、というかなり間接的なことのように見えるが、子育ての中心にいる人のサポートをすることこそが共に歩む子育てであるような気がするのである。もっといえば、奥さんのご飯を作ってあげられる男は、恐らくオムツ交換もミルクを飲ませることも自然と余裕でやると思う
 
 で、それが私にできるかというとですね、ぶっちゃけ自信なしなわけですよ。はい。いや、今の私の意識では無理でしょうな。ことあるごとに「自炊なんて全然安くねーじゃん。まともに肉と野菜買ったら弁当買うより高くつくじゃん」とうそぶいて、信念として自炊をしない人間であるし。
 
 だから結局、今のままでは私も「愛という名の支配」のもと、パートナーを家事労働という無賃労働に従事させて、時折ちょっとだけ手伝っては「俺ってやってる感」を味わう小さい人間に成り下がってしまうことだろう。願わくば、そうではない人間になりたいものでもある。しかし炊事だけは費用対効果が低いという点で、どうしてもやりたくないのよね〜(終わってる感溢れる文章)。
 
 不公平感を「愛」という美しいものでうやむやにしている世の中がさらに変わっていくことを願わずにはいられない田嶋陽子LOVE。
 
↓女が船底でオールを漕いで、男はその推進力で動く船の甲板で活躍しているのが現代の社会の構図だ! と何回も述べる田嶋陽子怒りの著書。男の仕事上の頑張りは、女の無賃労働(家事)の上にあぐらをかいて成り立っているものでしょということの比喩である。確かに、女性でバリバリ活躍している方は、あんなに職場で躍動しているのに、帰ったら家族の分までバリバリ家事をこなしているのよね……

今まで観た映画

★★★★☆

 でも政権交代してもなぁ……、という話。

 未来を知る者のモヤモヤあり。

 

スピーチが世の中を動かすって怖くない?

 本著の内容は「スピーチ」である。
 主人公(♀)が、幼なじみの結婚式で「伝説のスピーチライター(♀)」と出会い、弟子入りし、スピーチへの造詣を深めていくにつれ民衆心理を学んでいく話である。ストーリーの感想については後ほど言及するが、本著は大きく前半と後半にくっきり明確に分かれる構成となっており、「前半はすげー面白かったけれど、後半はなぁ……」と後半に進むにつれてフクザツな心境になった読者が多いのではないかと予想する。特に現在読むとねぇ……。
 
 私はキャラクター的に、割とスピーチやらプレゼンやら司会やらを依頼される傾向が多い人間であると思われる。文章を書くときでもプレゼンをするときでもスピーチをするときでも、私が心掛けるのは必ずウケを狙うということなのだが、文章を書くことでもプレゼンをすることでもスピーチをすることでも、「笑いは必要ない」と言われがちである。モノの本に書いてあるのだからそれはきっとそうなのだが、それだとやってて面白くないじゃんと思うのである。
 
 ウケを狙うことこそ我が人生であるとさえ言える。
 
 私はいついかなるときでもウケを狙っている。だから、文章を書くにしてもプレゼンをするにしてもスピーチをするにしても、私に撮ってそれらは全てウケるために用意された舞台でしかないのである。
 
 何が言いたいかというと、そんな私からすると、本著の中で書かれている「スピーチのコツ」みたいなポイントには、私と相容れないところもまたあったなぁということである。特に本著1ページ目にある「スピーチの極意 十箇条」は、なるほどなるほどと深く肯く一方、まじめやなぁ(´・Д・)」と思うところもありまして。マジで感動させることを狙ってるんだなぁとちょっと私とはちょっとソリが合わない美人な異性と接したときのような心持ちになりましたとさ(伝わらないたとえ)。
 
 本著の中で再三語られるのが、「スピーチで、世の中を変える」的な話である。これだけ聞くと誇大妄想的なフィクションに感じるだろうが、劇中では様々な「なるほど」があり、そういうこともあるかもしれない——いや、そういうものかもしれない環境大臣とか、と思ってくる。
 
 劇中ではもちろんそれを肯定的に受け止めているからこそ主人公の成長や悲喜交交な対決があるわけだが、要するに言いようで物事は動くってことじゃね? という話なわけで。それってめっちゃ怖いな、と素直に思った次第である。環境大臣の発言がいつでもセンセーショナルな報道をされ、世の中が少なからずそれに影響を受けている現状を目の当たりにしている現在、こえーなーと。
 
 だって、スピーチライターが善人とは限らんじゃん
 
 いや、政治の世界の話に限っていえば、そりゃ、スピーチライターの思惑なんかでは動かせない部分があるとは思うけれども(凄腕ならば自分の悪意を組み込めそうとも思う)。
 この物語は要するに、「話のうまい奴は他人を自在に動かせる」という話でもあるわけである。某メンタリスト的な
 
 私はいま、ネット上の情報商材関係の詐欺的行為に関心があり、その「界隈」のことをなんとなく調べる日々であるのだが、誰とは言わないが自称カリスマ○○みたいな奴がYouTube上でオーディエンスを引きつける講演の様子を撮影した動画やプレゼンよろしくな巧みな話術で視聴者の気持ちを煽る動画でnote等での情報商材を購入するよう誘導するようなやり口を見ていると、「巧みなスピーチは毒にもなり得るものだ」ということを感じざるを得ない。
 
 本著は「スピーチの力で世界を変える」ということを肯定的に捉え、熱い物語なのだが、実際には変えた結果世の中が良くなるとは限らないということは現実世界の実際の政権交代によってある意味示されているわけで。
 
 本著が刊行された当時すぐに読んでいたらまた違った印象だったのだろうが、2020年現在で読むと、世の中を動かそうとする主人公たちのひたむきさが「なんだかなぁ……」と素直に見られなくなってしまっている。非常に残念なことである。

政治の話になるまでは面白かったなぁ

 もうすでにある程度ネタバレしているが、本著の前半は主人公が師匠との出会いにより鍛え抜いたスピーチ力をきっかけとして、自分の勤めるお菓子メーカーのプロジェクトに大抜擢されるという話である。で、てっきりそのプロジェクトに右往左往しながら更なる成長を遂げていく話になるのかと思いきや、後半に突入するといきなり政治の世界に足をつっこむ話にメタモルフォーゼする。いや、まじなんじゃそりゃなのである。
 
 もちろん、作者の原田マハが描きたかったのは、この後半の物語であろう。劇中及び執筆当時の時はちょうどオバマ政権誕生のときと重なる。そして日本は五十五年体制が終わり、民主党政権が誕生した頃である。これらの新しい時代の訪れを、本著は「スピーチ」という観点から描いた作品なのである(劇中では民主党ではなく「民衆党」であるが)。
 
 ただ、私が読みたかったのはそっちではないのであった。
 
 私は、一企業の中の平凡な一社員でしかない主人公が、他の人間とは違うアプローチ、違う力で困難に挑戦し成長していく物語の方が読みたかったなぁというのが素直な感想である。そして本当に、中盤まではその盛り上がりがあったのである。それが突然、あれよあれよという間に話が政治の方向に転がっていってしまい、「あれぇ?」となるのである。なんか話が違くね? こんなはずでは……、と。
 
 フィクションに政治的思想が絡むと、興醒めする。言論統制時代の近代作家の作品とか(個人的な話です)。
 
 ただ、作者の筆力が非常に高いので、それでも面白く読めてしまう魅力が本著にはある。だから本著がおすすめかそうでないかと問われれば、一読の価値ありという回答になろう。
 
 ただ……ただ、この筆力をもって、「平凡なOLがスピーチの力で会社の中で新たな道を切り拓いていく」という、そういう個人スケールの話を描いて欲しかったなぁと何度も何度も書いてしまうほどに思うのであった。ああ、残念。。。。

広告代理店戦争

 本著には、「電通」と「博報堂」という日本の二大広告代理店をモデルとした会社が、結構そのまんまな名前で出てくる。広告代理店が日本の選挙の参謀を務めているという点で、このことは結構重要であったりする。「自民党」と「民主党」をモデルにした政党も結構そのまんまな名前であることもあり、この辺、リアリティがかなりある。自民党と民主党の戦いは、電通と博報堂の戦いでもあるのである。
 
 そういう観点で読むと、世界がまた広がるかもしれない。特に選挙に無関心な人は、そういった目線で選挙を見られるようになると、各候補のメディアでの表現のされ方も含めて、いろいろと面白く見られるようになるのではなかろうか。
 この街頭演説の背後にはどんな人がいるのだろうか——とか、メディアに切り取られて何回も繰り返し流れるこの部分のパワーワードは何なのか——とか。
 
 「世界が広がる」という本の力、読書の魅力という要素がふんだんに込められているのが、原田マハの職業小説の最大の魅力であると個人的には考えている。
 お堅い政治の話をフィクションの力で柔らかく、優しく理解させてくれるのはとても良いね!
 ただ、そんなに善人じゃないだろ政治家とはかなり思うのだが。「民衆党」の党首が、ファンタジー小説に出てくる善意の塊のようなアホみたいな王様を彷彿とさせるほどの善人で、ちょっとそこはなんだかなーである。
 
 そして、テレビ業界では「電通の批判をしたら二度とテレビに映ることはない」という黒い噂があるので、作者の原田マハがテレビに登場することは二度とないかもしれないという超余計なお世話なことを心配したりしなかったりらじばんだり。電通の敗北をそれとなく描く物語でもあるので〜。

本著の魅力は

 この本の最大の素晴らしい点は、「名スピーチを描くことから逃げなかったこと」である。
 
 人の心を動かすスピーチ、「言葉で世界を変える」というスピーチがテーマの物語であるなかで、そんな大それたことをぶち上げたら普通「そんなスピーチ、書けなくね?」みたいにごまかしそうなところであるのだが(スピーチをした部分は場面転換でごっそり省略する、とか)、本著ではスピーチの内容をきちんと書いている。「言葉で世界を変える」ということに挑戦するスピーチを。
 
 読んでみると、正直にいえばこれはそんなに良いスピーチなのか? と思わなくもないものもあるのだが、そう感じるものでも、力のある人が然るべき場所で読み上げれば、もしかしたら感動するのかもしれない。
 
 名スピーチライターという肩書をもつ自らが生んだ登場人物が作り上げる「名スピーチ」を、逃げることなく描ききったその姿勢には脱帽である。
 
 政権交代のほとぼりが冷めた今なら本著はドラマ化されそうな話だな〜と感じた。が、前述のように電通の敗北を暗に描いているので、まあテレビでのドラマ化は無理かもしれませんな〜
 
↓なんやかんやと書きましたが、とてもおすすめです。

今まで観た映画

★★★★★

 反省させると犯罪者になります、という話。まんまやんけ。

加害者視点に立つ

 本著に興味をもったきっかけは、2019年に話題沸騰となった「教員いじめ」問題である。羽交い絞めにして笑いながら激辛カレーを食べさせていたアレである。
 
 神戸市立東須磨小学校の教師いじめ問題で話題となったことの一つに、加害者達による謝罪コメントの出来の悪さがある(リンク先参照)。特に首謀者とされる40代女性教員のコメントはここまでくると逆にギャグなのではないかというツッコミを禁じ得ないくらいヤヴァイものである(もっとも、反省文ではなく、教育委員会が事情聴取の中で聞いた言葉を拾って発表したものだとという話もある。事情聴取でこんなこと言っていることも問題だが)。
 
 また職業が「教員」という立場であるだけに、この謝罪コメントというか反省文の出来の悪さが一際目を引いた感がある。つまり、普段「反省文を書かせる立場」であるくせに、あまりにも「悪いお手本」として立派な反省文となっているため、ギャグと化しているのである。書かせる立場の奴がいざ自分で書いたらこれかよw みたいな。
 
 加害者4人の反省コメントは当然のことながら世間から猛バッシングを受けた。何なら、こんんなコメントを保護者会で平気で代読した教育委員会の悪意すら感じられるくらいである。4人に制裁を加える意味合いでわざわざ読み上げたとしか思えないような火にガソリン的なものであった。逆に、こんなに批判を浴びるとは思っていなかったとしたら、教育委員会にも問題があることになる。そんなバカなね〜ねえ?
 
 しかしながら、視点を変えて見ると、加害教員達は、自分たちの反省コメントが、本当に、心の底から、なぜ非難されているのかわからない、こんなにも批判されるとは思いもしなかったと思っているかもしれないということが見えてくる。
 
 それが、本著の中の最重要キーワード「加害者視点に立つ」ということである。
 
 加害教員たちの視点に立ってみると、彼らは今、人生最大のピンチに立っているといえる。つまり、今後も教員として生きていけるかどうかの瀬戸際に立っており、彼らは当然、今後も教員を続けいていく気マンマンなのである。教員という職を失うことだけは何としてでも避けたいと思っていることだろう。学校の先生が今更サラリーマンになって人にペコペコできるとも思えんし
 
 だからこそ、許しを乞うべき相手を簡単に間違えているのである。
 
 加害者の立場で身の保全を考えるなら、許しを乞う相手は、被害教員ではなく、自分の職場復帰が許されるかどうかのカギとなる相手だということになる。つまり、保護者と、職場の同僚たち(ついでにいえば児童も)の理解が必要だということになる。さらにいえば、謝罪コメントからは、被害教員のことをいまだ軽く見ていることがよくわかる。謝罪の相手は被害教員というよりも、被害教員の家族に当てている気色がかなり強い。被害教員からの直接の反撃ではなく、その家族からの意趣返し(つまり職場に復帰できない)を警戒している様子がありありと伺える。恐らく被害教員の家族からの訴えの方が加害者に届いているからであろう。
 
 結論めいたことを言ってしまえば、加害教員たちは反省などしていないのである。それはテレビでもネットでも散々言い尽くされていることなので改めてここで糾弾するようなことはしないが、ここで問題としたいのは、人間心理として実はそれは当然のことなのではないかという点である。
 
 そしてそれこそが本著の最大の要旨であるといえる。

反省は、いつできるのか?

 被害者のことまで考えられるのは、ずっと先のことなのです。
 
 と、筆者は述べる。
 少年院経験者に「迷惑をかけた人リスト」を作成させると、上位に挙げられるのは「両親」や「友人」であった——つまり、「被害者」よりも上位に自分にとっての親しい人が挙げられているという研究結果を紹介している。
 
 このことはすなわち、加害者はまず自分のことを考えてしまうということを意味している。そして(たとえそれが許されないことだとしても)それが人間心理としては当然の流れであると筆者は指摘するのである。
 
 たとえ悪いことをしたという自覚があったとしても、このことによっては自分のこれからの人生が左右されるわけなのだから、自分の刑が少しでも軽くなることや、どのようなことを話せば印象が良くなるかといったことを常に考え、自分の人生を中心にした視点に立ってしまう。
 
 だから反省コメントは、被害教員に向けてというよりも、周囲の理解を得るための自己弁護というテイが強くなってしまっている。許して欲しい相手は被害教員ではなく、自分の周囲の人間と自分を糾弾する世間なのである。
 
 特に中心人物であったとされる女性教員のコメントは、ハタから見れば「たとえ思っていたとしても言うだけ損」だと簡単にわかるような言葉を挟まずにはいられなかったことがうかがえる。自分の視点にしか立てないからこそ、「自分の気持ちもわかってほしい」という想いが噴出した形となっている。
 
 ただ前述のように、加害者が自分を中心とした視点に立ってしまうのは、ある意味当然なのである。逆に言えば、自分が人生最大のピンチに立っているにも関わらず「被害者の気持ちになる」ことは、容易なことではないのである。筆者は「被害者の心情を考えさせることは逆効果」であるとさえ言う。
 
 なぜならば、加害者は被害者に対して不満をもっている場合がある、という厳然たる事実があるからである。さすがに自分が悪いことをしたという自覚をもっている者はそれを口にすることはないが(首謀者の女性教員は口にしているようなものだが)、たとえばもしも「反省文」を本当に素直な気持ちで、誰にも見せず絶対にバッシングしないという庇護のもとで書かせたならば、「あなたがこうでさえなければ、自分もこんなことはしなかった」「あなたにも悪いところがあった。なのに、なぜ自分だけこのような目に遭わなければいけないのか」という文言が出てくるだろうことは容易に想像できる。加害者が現状に苦しんでいるならば尚更である。いま受けている自分の苦しみを当然の報いとして全面的に受け入れられる者ならば、そもそも問題となるようなことなどしていないだろうという話である。
 
 そうした状況であるにも関わらず「被害者の気持ちを考えさせる」ことは、加害者の視点に立ってみれば、相当過酷なことであるといえる。(手前勝手な理屈であるが)自分を苦しめている元凶の気持ちに寄り添うなどということは、不可能に近い。
 
 恐らく、加害教員たちの頭の中を最大に占めているものは、「早くほとぼりが冷めないだろうか」ということである。世間からのバッシングや、ある意味では社会的制裁のように受けるマスコミ等からの執拗な取材で、彼らを追い詰めれば追い詰めるほど、実は反省からは遠のいていく。自分の辛い毎日にだけ目がゆき、被害教員の苦しみを考える余地はますますなくなる(元から考える気もないと思うが)。頭の中は「どうして自分がこんな目に……」でいっぱいであろうことは容易に想像できる。
 
 そしてまたいわゆる「世間」も、そもそも彼らの反省など求めていないのではないかと考える。世間が求めていることは、それこそ社会的制裁のみであって、彼らの反省や改心など1ミリも求めていないだろう。つまり、彼らが苦しむ状況こそが、「世間」を満足させる唯一のものだとさえいえるかもしれない。
 
 許してもらうために謝るのか。
 自分が悪いから謝るのか。
 
 この二つにはグランドキャニオンよりも深く、遠い溝がある。しかしながら、今回の東須磨小のことに限らず、多くの者は、まず前者のために謝罪してしまうところがある。
 
 本来許すか許さないかは、相手の問題であって、謝罪する側が関与することはできないものである。だから当然、そこには「許さない」という選択肢があって然るべきであるのに、私たちは往々にして「謝っているのに、許してもらえない」という事態には非常に強い不満を抱いてしまう。自分が悪いと自分で言っているにも関わらず、である。
 
 そうした不満の根底にある不満——被害者に対する不満を吐き出させることから、真の「反省」は始まると筆者は述べる。加害者に被害者のことを考えさせるには、まず加害者自身の気持ちを受け止めてあげなければないないというのである。そしてそこには必ず、加害者の生育歴が関係してくる——平たくいえば「親との問題」が必ず浮かび上がってくる、というのが筆者の考えである。一見遠回りのようだが、まず加害者が心に中に抱える問題を支援者が受け止めた後に、ようやく被害者のことを考えられるようになるというのが、筆者の結論である。
 
 つまり、真の「反省」とは、最後にやってくるものなのである。自分のことの後に、ようやく相手のことがあるのである。「自分の心の痛みに気づくことから真の反省が始まる」と筆者は述べる。
 
 それを形ばかりの「反省文」で早急に「反省」を求めるからこそ、加害者は結局被害者のことを何も考えられずに終わってしまう——何も「反省」できずに終わり、また同じことを繰り返してしまう、と筆者は警鐘を鳴らしているのが本著の主旨である。
 
 ただし、最大の問題は別にあると私は考える。

自分が被害者になったら、加害者の支援ができないのは当然のことである

  すでに述べたが、最大の問題、というか争点は、恐らく「世間」は別に加害教員たちの反省など求めていないという点であろう。求めているのは「制裁」であって、溜飲が下がる結果のみを欲しているといえる。何を隠そう、私もそうである。そうでなければ、何より被害教員の男性が浮かばれないのではないかとさえ思う。少なくても、被害教員よりも幸せな人生を今後送ることは絶対に許せないと心情的に思っている。
 
 しかしながら、現実問題として、筆者のように「加害者を支援する立場」の人も存在する。そしてそういった人たちは、決して犯罪を是としているのではなく、むしろ犯罪を減らしたいと思うからこそ加害者を支援しているでのある。つまり、「再犯」をさせないように
 
 私も上記の偽らざる想いがある一方で、もしも加害教員たちが社会復帰したとしても、少なくても今回のことで良い方向に人格が変わることはないのではないかと思っている。つまり、似たようなことをまたやるだろうな、と。形を変え、相手を変え、より問題とされないような工夫を施すだろうが、また似たようなことをやるだろうというのは、誰もが容易に想像できることである。
 
 「なぜ彼らはこのようなことをしてしまったのか」という問題の背景を、加害教員たちの心に寄り添い、問題行動に至るまでの道程を一緒に考えてくる支援者がいない限り、彼らは自分の力でその要因に行き当たることはないので、また同じことを繰り返すだろう。彼らが同じことを繰り返すということは、被害者がまた生まれるということである。今回の「反省」を生かし、より巧妙化された暴力のもとで。
 
 筆者は、昨今の厳罰化の傾向にはっきりと「反対です」と述べている。しかし同時に、こうも続けいている。
 
しかし仮に私が被害者の立場になったり、私にとって大切な人が殺されたら、恐らく私は加害者を殺したいと思うでしょう。(中略)ずるいと思われるかもしれませんが、支援者の立場と被害者の立場をいっしょに論じることは不可能です。分かりやすく言えば、私は自分にとって大切な人を殺害した犯罪者の支援をすることは絶対にできないからです。
 
 支援者の立場と、被害者の立場は個々に議論するしかないという。つまり、加害者のことと被害者のことは分けて考えるしかないということである。 犯罪を減らす——つまり再犯をさせないために加害者の支援をすることと、被害者を救済することとは、同時には成り立たないのである。加害者のことは切り離して考えなければならない——ただ、そのハードルはかなり高いように思う。たとえそれが絶対に必要だとしても、どうしても私の上記のような心情になる者が大半なのではないだろうか。
 
 これは社会的な矛盾でもある。犯罪は減らしたいが、加害者の支援の理解はなかなか容認されるものではない。しかし犯罪者には犯罪に至るだけの社会的背景もまたあり、それを解決せずして犯罪の抑止は不可能なのである。
 
 ただし、こうした社会的矛盾も、学校教育の段階であるならば、まだ同時に成り立つ素地があるはずである。被害者の支援はもちろん、加害者の支援もまた、学校という場では受け入れられやすいものであろう。この段階で筆者が述べる「真の反省」を促すプログラムがあるならば、結果的に犯罪は減少するかもしれないのである。
 
 まあ、その学校という場で、今回の「犯罪」は起こったんだから、世話ないですな。
 お先真っ暗ですな。
 
↓非常にキャッチーなタイトルであるが、タイトルに偽りなしの名著である。

今まで観た映画

★★★☆☆

 みんな短絡的すぎる話。

 もうちょっと考えて仕事はしよう。

 

情緒不安定な人が職場にいると周りの人間は大変だ、という話(※ネタバレあり)

 戦争なのだからそういうものなのかもしれないが、主人公のレイも、敵だったり味方だったりで何かと情緒不安定なカイロ・レンも、自分勝手の度が過ぎるのである。基本、自分のやりたいことしか頭になく、自分が良いと思ったことは何をしても良いと思っている傾向がある。「こいつと一緒にいるとマジで大変だな」と恋人のご機嫌一つに振り回される尽くし系女子のごとく、周りの人間はヘトヘトであることよ。
 
↓この人の勝手な行動に後からみんながついてゆき、そしてそのせいで多くの人が死にます。
ほう・れん・そうがまったくない人が職場にいると周りは尻拭いに大変よね。そして肝心の本人は「大仕事やったった」みたいな雰囲気を醸し出しがちだし……
↓お前は結局なんやねんというそしりを免れない点は、尊敬するダース・ベイダーにそっくりであった。
 
 とりあえずですね、上記の二人が散々勝手な行動をするというか、二人だけの世界でやたらと画面どアップで「ハアハア(・Д・)」と言っているもんで、周りの人間は大変ですよ。いちいち追っかけて「おーーっい」てやらなきゃならんもんで。しかもこの二人、やたらと危ない場所で逢瀬を繰り返すものだから、追いかける人たちも必然的に散々危ない目に遭うのである。
 
私だったら「いい加減にしろ!( *`ω´)」と激おこプンプンですよ。
 
 仲間はみんな、宇宙のように心が広く、海よりも度量は深い。
 
 また、本作で裏で糸を引く大ボスが、結局はシリーズ共通のラスボス「パルパティーン」だったことが明かされる。「死んだけど、フォースのダークサイドの力で復活しました!」というあらゆる理屈と整合性を超越した中学生が描くファンタジー小説のような展開で見事復活を果たしたパルパティーンさんは、一度死んでしまった影響からかこれまた情緒がいまいち安定しておらず、カイロ・レンにレイを殺すよう指示していたかと思えば、いざレイが自分の前まで辿り着いてみれば「実はお前を殺す気はなかったんだ! お前が私を殺すことで、私の力が受け継がれる!」と殺せ殺せコールをレイにし始め、そんなんいややとレイが抵抗しているところになんやかんやと乱闘していたカイロ・レンが助けに来たら「やっぱりお前ら死ね」みたいに再び殺しにかかる——というお前は一体どうしたいんだの極みの姿を鑑賞者につきつけ、観ている方はもうパニックですよ。結局どうしたかったんですかね? 宇宙の支配者にならんとしている人がこれほどまでに情緒不安定だと、統治されている銀河系の人たちもきっと混乱の極みでしょうな〜。朝令暮改を地でいく方である。大体、「支配したあかつきには、一体どうしたいのか」という展望が全然見えてこないのが問題である。政治的野望が一切見えてこない分、「支配をするまでが実は一番楽しかった」みたいにならないか心配である(不要な心配)。
 
↓情緒不安定なのは血筋なのかしら〜というネタバレ!
 

私とスター・ウォーズと器の大きさと

 そんなわけで『スター・ウォーズ』シリーズ新たなる三部作の完結編である。
 
 まず、私は『スター・ウォーズ』シリーズは映画作品に関しては一応ひととおり鑑賞しているのだが、通じていえることは相性が悪いということである。平たくいえば、基本的にはつまらないと思っているので、コアなスター・ウォーズファンともまた相性が悪いこと請け合いである。前の職場でめっちゃ仕事ができて大人なスター・ウォーズファンの上司(上司だけど同い年)に、ストーリー上のご都合主義の部分やよくわからない展開をこれでもかと力説してスター・ウォーズがいかに肌に合わないかを訴えたことがあるのだが、大人な彼は苦笑しながら「そうですね」と語り、人間としての器の違いを見せつけられたものである(彼が人より大きく、私が人より小さく)。
 
 私がスター・ウォーズシリーズで一番面白かったと思うのは『ローグ・ワン』である。むしろそれ以外はあまり面白くないというか、物語として純粋にあんまり面白くないと思ってしまっている。大作シリーズとしてなら「マーヴェル・シネマティック・ユニバース」の一連作品の方が圧倒的に出来がよいと思っているので、お正月休みに大作映画をじっくり観たい! という友人・知人には軒並みマーヴェル作品をおすすめしている次第である。はい。
 
 私が『スター・ウォーズ』シリーズを鑑賞していて一番感じるのは、「こういうシーンが撮りたい!」というのが先にあって、そのシーンを撮るためにストーリーを後付けしているかのような感覚である。そのせいなのかなんなのか、登場人物たちの行動にとにかく無意味なことが多すぎるのである。
 
 CMや予告編で使われるようなものすごい見せ場のシーンがあるのだが、そのシーンの前後の話は結構かったるく、終わってみれば「このシーン、別になくてもよかったんじゃない?」と思うようなことが多々ある。本作でいえば、たとえば
 
 
↑のシーンは、カイロ・レンが乗ってきた小型宇宙船を後方宙返りムーンサルト的なことをしながらぶった斬るシーンなのだが、ぶった斬られたあとももちろんレンは無事なので、普通に避けるだけでよかったんじゃね? とか、そもそもなぜレンは宇宙船でレイを轢き殺そうとしたの? とか、スター・ウォーズシリーズの真髄が全然わかっていない私には「?」ばかりなのである。というか、レイがかっこよく宇宙船をぶった斬るシーンが撮りたいというのが先にあって、それに合わせた展開を無理やり挿入しているように見えるわけである。
 ちなみに上記写真のようなキメ顔をレイが決めている裏では、チューバッカが敵に連行されております。連行せずにその場でさっさと殺せばよいところを。
 そのことにはまったく頓着せず自分の世界に入り込んで宙返りをかますレイと(気づいてないといえば聞こえはよいが)、そのことをまったく責めないレイの仲間たち。仲間たちは主人公には寛容なのである。
 
 その他では
 
 
↑海に墜落したデス・スターの残骸の上で戦うシーンなのだが、主人公レイが大時化が収まるわずか数時間が待てずに周りの言うことを無視して勝手に一人でこの場へ向かったがために、このような劇的なシーンとなっている。見栄えはするが、わざわざ危険度が増すような戦闘になっており、そのせいで危険を顧みずに駆けつけた仲間も結局手を出せないのである。それはすなわち、危険を冒し損であるといえる。君は一体何をしに来たのだろう?
 
↓本作随一の無駄ボーン場面
 
 巷では「エピソード8の愚作ぶりを見事に尻拭いした」とか、「やっぱり8が余計だった! 最初からこの監督が3作すべてを監督してれば駆け足展開でこんなご都合主義にならなかった! それが惜しい!」みたいな声があるようだが、私個人の感想としては、7も8も本作も、特に変わらぬスター・ウォーズクオリティだと思うけどなぁというのが正直なところである。もちろんそんなに良くない意味で。ずーっとこんなもんじゃなかった? と思うのは私だけであろうか。私からしたら、むしろエピソード6のあの超有名なラストシーンこそ「なんじゃそりゃ」なんですがね。ダースベイダーの優柔不断ぶりと結局パルパティーン殺るんかいという展開に。
 
 というわけで、『スター・ウォーズ』ファンで全然ない者の所感でございました。
 しかしこれは所詮、「ダイヤルアップ接続を知らない現代の若者にWiFiの素晴らしさを語っても刺さらない」のと同じで、古くからのファンが長い年月をかけて本シリーズを愛しみ続けているのとは立場そのものが違うのである。そういう意味では本作は、「シリーズを愛してきた人たちに愛される作品である」という意味では、狙い通りの成功を収めたのかもしれない。というアンニュイな着地で幕。

シリーズ感想を簡単に一覧

↓「前日譚は、本筋を観てから観るべきであった……」という揺るがない事実を痛感したエピソード1。シリーズまったく未見であった私はうっかり時系列順に鑑賞してしまったのだが、本筋あっての前日譚なのである。「あのキャラクターにこんな過去が!」という感動とは無縁のため、本筋に登場するキャラのエピソード的挿話がただの無駄に見えてしまって単なる冗長な話に思えてしまいました(私の感想

↓ジェダイの騎士達のあまりの弱さに愕然としたエピソード2。少年アナキンが青年アナキンにジャンプアップするのだが、その間にあったことをあの冒頭の字幕だけでちょっ速で説明されるもんで、油断していた私はまったく追いきれずわけワカメであった(私の感想

 

↓国(というか星)を代表する統治者たちが敵も味方もあまりにも浅はかすぎて、まだ日本の政治家の方がよい外交をするだろうと思わずにはいられないエピソード3。暗黒面の力を手に入れて強くなったはずのアナキン青年も結局お師匠様に両足を切断されてマグマで燃え上がるという憂き目に遭い、ちっとも強くなった印象がもたれないのはベジータに通ずる残念ぶりである(私の感想

 

↓かの有名なレイア姫があまりにも可愛くなさすぎてびっくりしたシリーズ初作品のエピソード4。また、映画界に悪役としてトップレベルに君臨するダース・ベイダーの何をやってもまったくうまくいかない無能ぶりに本心から驚いた次第である(私の感想

 

↓開始1分のおなじみ冒頭字幕にて、「前作でがんばったけど、やっぱりピンチになりました」ということを駆け足で説明されハンパない徒労感から始まるエピソード5。タイミングとしては最悪の場面でダース・ベイダーが「お前は私の息子だ。だから仲間になれYO!」と告げてくるので、もう少し人の心のありようを考えた方がよいのではないかと思いましたまる(私の感想

 

↓ひのきの棒で最新兵器&最新鋭の装備を纏った兵士達を次々とやっつける驚愕のエピソード6。どう見ても至って普通のロープ張って敵ロボットの動きを止めるなんて、現代の軽自動車の方がまだ馬力あるやんと思わずにはいられなかった。帝国軍が負けたのはこうした装備の貧弱さにあるのではなかろうか。そして何がしたかったのか最後までよくわらかないダース・ベイダーのその「あっちにふらふらこっちにふらふら何をしたいのかよくわからない感」は見事、カイロ・レンへと受け継がれるのであった(私の感想

 

↓シリーズで初めて「可愛い女の子が出てきた!」と感動したエピソード7。敵が残虐非道の限りを尽くす冒頭に感動し、「ようやく立派な悪役が出てきた!」と感動したものの、ここがピークであったことは知る由もなかった(私の感想

 

↓巷で悪名高いエピソード8。確かにびっくりするほど話の展開が散らかっていて、登場人物は敵も味方も揃いも揃ってバカばかりである。上に立つ人間が無能だと死人が大量に生まれるということを壮大なスケールで描いている(私の感想

 

↓あのダース・ベイダーが初めて「つ、強いっ!」とその存在感を発揮した記念碑的作品であるスピン・オフ。私が最も面白いと思ったスター・ウォーズ作品である。その面白さは個人的には本編とは比べものにならないくらいである。エピソード4(第1作目)のそもそものストーリーは、「反乱軍が帝国軍から最終兵器の設計図を盗み出した!」というところから始まるのだが、そもそも敵に国家レベルの機密情報を盗み出されるってどうよ? アメリカが北朝鮮に核情報を盗まれるようなもんだよ? と思っていた私に、答えを示してくれた作品である。これだけ苦労したんなら、まあ許すΣ(-᷅_-᷄๑) と。

今まで観た映画

★★★★☆

カウンセリングとは聴くことだ! でも聴くことは辛いんだ! という話。

 

人間とは何か言いたくなるものである

 私の職場の隣の席に座っていた女性(若くて可愛いくて頭が良くて私よりマラソンが遥かに速い)が産休に入られたので、その補充として契約社員の女の子がやってきた(若くて可愛くて頭がよくて私より遥かに大人)。その女性の前職がなんと図書館司書ということで、「辞めるべきじゃなかった。あなたはこんなところに来るべきじゃなかった!」と初日から熱弁してしまった次第である。「うぉぉぉぉぉ! 言ってくれたら代わってあげたのに〜」と隣の席で本気で嘆くおっさんに心底不安になったと思うのだが、その不安を今もって微塵も感じさせない大変大人な女性である(もちろん年下です)。
 
 さて、そんな読書量が莫大であろう元図書館司書から薦められた一冊が本著である。私は現在「人と面談をする」という仕事を業務の一部として担っているのだが、なんだか相手と化かし合いをしているような気分になってくるということをポロッとこぼしたら、本著を紹介された。いわく「『話を聴く』ということの職業人としての矜恃が学べる」ということであった。
 
 私が他人と面談をしていてつくづく思うのは、相手は「この場を乗り切ろう」という意識をもって臨んできているということである。つまり、「聞き手(私)が満足しそうな言葉を選んで言っている」ということが、実によくある。「嘘つきは泥棒の始まりだぞ〜」と喉元まで出かかってももちろんそれは声には出さないのだが、まさに心を開いていないとはこのことである。まあ私も心開いていないから当然といえば当然なんだけど。
 
 しかし、なぜ面談をするのかといえば「問題があったから」なわけで。問題の解決のためには互いに解決の方向に努力しなければならず、化かし合いでは何も前進しないのである。
 
 といった事情から「聴く」ということにフォーカスされた知識が欲しいみたいな話をしていたら、本著を紹介されたわけである。その女性いわく「『聴く』職業人としての本」ということなので、その場で——なんならまだ話が終わっていないうちからスマホを操作してAmazonで注文した。人の信頼を得る簡単な方法ひとつは、アドバイスされたことを即実行することである(打算的)。
 
 読んでみると、とにかく「聴く」ということがどういうことなのかが繰り返し語られている。講演会か研究会の記録のような体裁となっているので、カウンセリングを学びに来た質問者に対して、筆者はとにかく「聴くことは苦しい」「とことん聴いていると、語っている方も、聴いている方もどこまでも落ちていく。それでもカウンセラーはクライアントについていくのです」みたいなことを述べ続ける。
 
 その中で最も「ああ、そうだな」と思った点は、「聴く者が何かを言うのは、この苦しみから逃れるためだ」ということである。
 
 話を聴いているだけって、超苦しい
 
 私は女性からよく「話を聞いてくれているだけでいい。何かアドバイスして欲しいわけじゃない」と散々怒られてきたのだが、ではとにかく黙って頷いていよう、相槌を打っているだけにしようと決意して話を聞いていても、固い決意はあっさりとアイスクリームのように溶け切って、自分の考えを切々と語ってしまう。どうしても我慢できない。我慢できないもんだから切々と自分の考えや自分が思う解決策を述べると、「そういうことを言って欲しかったわけじゃない」と怒られる。怒られると、「じゃああなたも私の話をきちんと全部聴くだけにして聴いてね」というと大抵嫌われる
 
 そう、話を聴くことは、辛いことなのである。私があらゆる女性に嫌われてしまうのと同じくらい自明のことなのである。
 
 だから、この苦しみから逃れるため——つまり、話に決着を付けて終わらせるために、相手が話す内容に対して何かを言ってしまうというのである。
 
 話を聴くことに徹し、どこまでも相手についていくのがカウンセラーであると著者は言う。
 相手が「死にたい」といえば、「そうですか、死にたいんですか」と話を聴く。その先に巻き込まれる恐怖から私なんかは「そんなこと言ったらだめだよ。良いこともあるじゃん」と言ってしまい、相手だって内心ではそれを言われるために敢えて「死にたい」と言っていることの方が多い。
 
 しかしカウンセラーは「死にたいんですか。死にたいんですね」と相手の話をただ聴くだけだという。そうすると相手も「あれ?」となる。あれ?となると、その先を語ることはクライアントにとってもとても苦しいものとなる。しかしその先にあるものが、患者を自ら立ち上がらせる力となることがあるという。
 
 純粋に「聴く」という行為は、専門家の技術を要することなのである。これからは「話を聞いて欲しいだけ」「話を聞いてくれるだけでいい」ということを言ってくる人に対しては、いきなりこの話をしようと思う。間違いなく嫌われることだろう。
 
 そもそも、話を聞いて欲しい人は、相手の話を聴く気はない。これは男でも女でもである。それなのに、「聞いてくれるだけでいい」とさも自分が譲歩しているかのようなことをいって、相手に聴くことを強いる。
 
 しかし、何度でも言うが、聴くことは苦しみを伴う専門技術なのである。

相談とカウンセリングの違い

 結局この「聴く」という技術の有無が、相談とカウンセリングを分け隔てるものだという。「聴く」ことによって自ら立ち上がる力を湧き上がらせるのがカウンセリングである、と。
 
 一方で、では「相談」とはなんなのかと定義しようとすると、これまた難しい。本著内では詳しく言及されているわけではないが、一口に「相談」といっても「本当に答えが欲しい」場合と「相談することによって相手をこちらの意図通りに動かそうとする」打算的な場合と、「ただ話を聞いて欲しいだけ」というそれこそカウンセリング的な意図をもっている場合等々、いろいろなケースが考えられる。
 
 ただ筆者が繰り返し述べるのは、「『相談』で解決するならば、それで良い。それができなかったときのためにカウンセリングがある」ということである。
 
 相手が「相談」を求めていて、こちらが何かを言ってそれで相手の道が開けるならそれで良い——と筆者は言う。どちらが優れたことかではなく、相談してもだめ、教え諭してもだめということで、じゃあカウンセリングしましょうということになる。カウンセリングとは、いろいろある解決策の一つであって、絶対的なものではないという。
 
 しかしどのような「相談」の場合であっても、「相談しやすい人」というのはいつだって黙って話を聴いてくれる人であったりする。だからやはり、「相談」のその先にカウンセリングというものがあるんじゃないかなーと思ったりらじばんだり。

相談に乗るという危険

 著者の言葉の中で最も印象深かったのは「正しいと思うことをするのは危険でもある」というような言葉である。人は、正しかったり助けになると思ったりしたことならば何をしても良いと思いがちであるという警鐘を鳴らす。この話は「カウンセラーは必要ならばクライアントの周囲にいる人間に会いに行くべきなのか?」という参加者からの問いの中で語られたことなのだが、著者は「そもそも本当に必要なことなのかどうかは、わからない」と答える。この「わからない」も著者が章を変えても何度も口にしていたことである。
 
 仮に相談されても「自分には何が正しいのかわからない」と正直に述べる。「必要かもしれないと思っても、本当に必要なのかどうかは結局誰にもわからない。やってみなければわからないし、やったとしてもさらに事態を複雑にさせてしまうことは十分ありえる」と繰り返し繰り返し述べている。恐らく生涯で放った愛の言葉よりも多く述べているに違いない。
 
 言われた通りにしたのにうまくいかなかった——というのは、自分から相談したかどうかに関わらず圧倒的なまでの不満を抱くことである。それが人情というものである。
 ひと肌脱ぐことで解決できるならそれでも良い。だが、カウンセラーの仕事はそれではないのである。だから何かを教示するべきではない。
 
 その徹底ぶりが、著者の話に強大な説得力をもたせている。カウンセラーができることは「聴く」ことだけであり、その「聴く」が難しいのである。なぜなら「人間というのはいかに説教したり、慰めたり、忠告したりするのが好きかということ」だからである。

精神分析はうつ病に有効なのか?

 話は変わるが、大学時代に心理学の講義を受講したとき、普段はカウンセラーをしていてバイトとしてうちの大学に講義をしにきていた精神分析を専門としている先生が、「うつ病は大得意」と述べていた。で、私は「医学書には精神分析はうつ病には有効ではないと書いてあるんですけど〜」と聴くからに態度の悪いダメ学生代表的な感じで質問をしたら、「それなら、その医学書が間違っている」「納得いかないんだったら、連絡くれればその証拠をみせる。私のところに話に来てもいい」と言われたので、当時の私は本当に世間知らずな大学生を象徴するようなヤな奴だったので、番号案内でその先生の個人事務所の番号を調べ、実際にアポをとるための電話をした。私が同じことされたら二度と口を聞きたくないと思うようなネチネチしたしつこさであるが、実際その先生もそんな時間はないとあっさりと言ってきた。まあそりゃそうだろうと今では思うのだが、当時の私は変質的なまでに矛盾や間違いを指摘することが性癖レベルで好きだったので、「あんたが良いと言ったんじゃないか」と憤慨し、以後講義で気まずくなったことは言うまでもない。はっきり言って私が絶対に悪いと思うのだが、自戒の念を込めてここに記す次第である。少なくてもネチネチと相手の揚げ足をとるような行為はやめたいものである。いや、マジで。
 
 で。
 
 「私が悪い」と言いながらもここで言いたいことは、本著の著者も「うつ病にカウンセリングは有効ではない」というスタンスである——ということが言いたい。具体的には、統合失調症等の精神病が疑われる場合は、速やかに精神科医に任せるべきであるとはっきりと述べている。カウンセラーはそうした事態に巻き込まれる危機感をもってクライアントを見定めなければならないとのことである。
 
 ただ、本著はかなり時代が古いものなので、現在でもそういう考えなのかはわからないんだけどね〜。
 
 カウンセラーというと、今でも真っ先に思い浮かぶのは、あのときのやり取りのことである。あの時の粘着性は現在の自分から見るとマジで結構異常で、「ムキになった」といえばかわいい言い方であるが、自分の中にある危ない因子に触れたかのようで、なにより自分にこういうところがあるということを私自身が恐れている。
 
 昔から、「学校の先生」というものがどうにも嫌いだったことがたぶん関係しているんだけどね〜という精神分析的考察

カウンセリングとは

 著者が何度でも何回でも愛しい人に囁く愛の言葉のように繰り返していたのは、
 
・相手の話にどこまでもついていって、とにかく聴く。
 
・何が正しいのか、どうすることが正解なのかは本当のところは誰にもわからない。だからカウンセラーが正しくあろうとするのなら、結局は聴くことしかできない。
 
 というようなことであると思われる。聴いて、聴いて、聴いていった先にクライアントが自ら立ち上がるための力があり、それをクライアント自身が見つけださなければならない。その手伝いをするのがカウンセラーだということになる。
 
 以上の話を読んで、カウンセリングとはこういうものか! 「聴く」とはとても技術のいることなのだな! と感心しまくりの私であるが、同時に「面談をカウンセリング的にやるのは無理だな」という結論にも達している。もちろん、私の「聴く」技術力の問題はある。
 が、それ以上に「そこまでしてやる義理はない」とも思うのである。いや、自分の愛する人に対してならあるいはそれほどまでの覚悟をもって話を聴くこともあるかもしれないが、そこまで自分の労力と時間を他業務の合間を縫って行うことはかなり難しいということ、そして何より——
 
 カウンセラーのもとには自らが望んでクライアントが来るが、問題を起こした当事者との面談は、自分の中にある問題をどうにかしようと思っているわけではない者が大半であるという現実的な面もある。
 つまり、そもそも前提となる条件が異なるのである。だから、まあ難しいんじゃないかなと率直に思った。
 
 ——というような感想を隣の席の女性に述べたところ、「そうですか。難しいですか」というカウンセリング的な受け入れられ方をしたもんで、このように考えがまとまった次第である。はい。
 
↓たとえ良書であっても役に立つとはかぎらないのだ!

今まで観た映画

★★★☆☆

 国民を危険な目に遭わせるのが趣味な王族一家の話。かつての日本なら土井たか子が黙っていなかったね!

国を混乱に陥れる統治者

 「未知の旅へ〜〜」と、またしても二人が旅立つわけなんですけどね。全国民が被災者となる災害の直後に国をあけがちですよね、この姉妹は。
 

↓てっきり「の旅へ〜」だと思っていて、どういう語順やねんと悪態をついておりました。すんません。まあイントネーションが悪いからなんだけど。「みち⤴︎(道)」か「みち⤵︎(未知)」か。

 

 私は前作の感想で「ハンス王子は実はよい統治者であった」論を展開するほど、この姉妹の統治者としての姿勢を疑問視している。国民はいつだってこの二人のせいで生活を脅かされ命の危険すら被っているのに、当の本人たちは気持ちよく歌いながらさっさと旅に出て行きがちなのである。

 

 前回は「ずーっと真冬」という危機的状況に国を陥れた雪の女王であるが(その間ハンス王子が国民に毛布を配るなどの善後策を施していた)、今回は国民を山の高台に避難させたまま二人で旅に出るもんだから、その政治的手腕にいよいよ疑問符が付かざるを得ない。旅から帰ってきたとき全国民がまだ山の上にいて、マジでびっくりした次第である。いや、そんな状態のままほっぽり出していったことが。

 

 よくこれで国民から革命が起きないものである。世襲の国だからそういう概念自体がないのかもしれない。

 

 しかも、護衛も連れない王族たちの旅の果てに、フタを開けてみれば、アナとエルサのじいちゃんが諸悪の根源という圧倒的なまでに絶望的な真相があったにも関わらず、めっちゃ前向きに——もとい、全然気にせず問題に取り組んでいく姿勢には、「たとえ血縁者でも、ヒトはヒト、自分は自分」というポジティブシンキングの権化のような姿が描かれている。そういう意味ではポジティブな作品であるといえる。

 

 アナとエルサのじいちゃんのせいで30年以上も霧の中に閉じ込められていた人たちがいるのだが、他人の30年なんてあまり気にならないのか、エルサは「私があなたたちと国との架け橋よ〜」と愉快に歌って終わっていた。30年以上といったら日本における無期懲役刑の仮釈放が認められるまでの平均的な期間と同じである。

 

 これくらい「広い心」と「前向きな心」とをもって日本と近隣諸外国も外交問題に取り組めれば、戦後から現在にいたるまでの様々な諸問題もきっとすぐに解決することだろう。もちろん無理だと思うけど。

 

 なぜ大人になるとこんなにも素直に映画を観られなくなるのかな〜と悲しみに暮れながら鑑賞したすっかり荒んだ大人となったアタシ。

 ちなみに劇場にいた子供達はオラフの一挙手一投足にもちろん大興奮の様子でございました。それが人間としてあるべき姿だと思いました。はい。

 

 記憶のみであらすじを辿ると、エルサが「何か声がする」といって旅に出るという100万回は観たことがあるパターンで旅に出て、オラフがボケて、じいちゃんのせいで対立した部族と会って、オラフがボケて、エルサが徒歩で荒波の海を渡ろうとして、オラフがボケて、じいちゃんが作ったダムが全ての元凶であることが発覚して、オラフが溶けて、ダムを壊して、すべての問題を超越した愛の力で全てが解決するというストーリーである(オラフ復活含む)。

 

 総評としては、ストーリーはイマイチですが、オラフの愉快さがとても心に染みるハートウォーミングな作品です。

オラフの声問題

 で、そのオラフさんだが、周知のとおり我らがピエール瀧は雪だるまの声を降板してしまった。まったくもって当然の処置であるが、そこで問題となるのが「新オラフの声を受け入れられるかな?」という不安である。
 
まったく無問題
 
でありました。
 ここまで問題ないと、逆に寂しさすら漂ってくる。つまり、ピエール瀧でなくても良かったんじゃないかという問題——ひいては、「あなたがやっている仕事は、きっとあなたでなくても良い」という誰もに当てはまる問題へと繋がってくる。
 
 ナンバーワンにならなくてもよい、元々特別なオンリーワン——そう歌った方達がナンバーワンの座から転落したら、5人中3人ほどはオンリーワンの存在を発揮する機会を失ってしまったように、オンリーワンであることはとても難しいことである。たとえ自分はオンリーワンであると思ってやっていても、転勤や配置換えがあっても何事もなかったかのように回り始める仕事の仕組みに、「ナンバーワンになることの方が実は簡単なんじゃないか……?」とすら思えてくる。
 
 組織の中でナンバーワンは必然的に誰かがなるわけであるが、オンリーワンがいなくても組織は成り立つ。むしろオンリーワンの存在が組織にいて、もしその人に頼りきっていることがあるのなら、それは危険信号であるとすらいえる。その人がいなくなったら回らなくなる仕事があるのなら、それは組織の脆弱性に直結するからだ。やはりシステムはもっと冗長化しなければいけない。
 
 ということで、ピエール瀧の不在は大勢にまったく影響がなかったという話でした。むしろどんな声だったかもはや思い出せない。寂しい。
 

実は続編があるディズニー作品

 私は正直『アナと雪の女王』自体あまり面白くなかったので、本作もイマイチであった。続編はなお面白くなかったという印象である。1作目を超えられないのは大ヒット作の続編のあるいみでは宿命的なことであるのかもしれない。
 で、続編の話。
 有名どころのディズニー作品であっても、実は人知れず続編が制作されていることがある。人知れずというのは、要するに劇場公開されていない「ビデオスルー」というやつだからである。
 
 劇場公開されていないといっても、そのクオリティは本編(1作目)とほどんど変わらないところが、アニメ作品の良さであり、難しさでもある。続編のクオリティに満足する一方で、劇場でアニメ作品を観る意義というものがなんとなくモヤモヤするのである。この感じ、伝わりますかね?
 
 しかし何はともあれあの有名作品にも実は続編があるんだよ〜ということお伝え&オススメしたい。
 

シンデレラ

シンデレラⅡの感想

シンデレラⅢの感想

 

 いきなり最もオススメの続編を紹介してしまう。

 私はディズニープリンセスで間違いなくこのシンデレラが一番好きである。その想いを抱くに至ったのは、何を隠そうこの続編を観たからに他ならない。

 

 「Ⅱ」は、サザエさんのように三本立て構成で、特に1話目はシンデレラの強靭な精神力と肝の据わり方が描かれていてる。王子様との結婚後、新参者(シンデレラ)が己の権力を利用して次々と城のしきたりを自分の都合よく改変していく様は、内閣が叫ぶ大改革よりもよほど大きな変革の渦を生んでいた。最後に自身の教育係に放つ名言「あなたとは仲良くやっていけそうね」は新しく赴任してきた上司の辣腕パワハラに怯える社員たちには胸にグサッとくる一撃となりそうである。

 また3話目では、義理姉アナスタシアとパン屋の主人との恋が描かれ、その恋を成就させようとここでもシンデレラが縦横無尽に活躍する。この恋は「Ⅲ」で無かったことのようになっているが、「Ⅲ」ではアナスタシアはかなりトーンダウンしていて、「Ⅱ」を受けての制作陣の「どうしよう」感が伝わってくるようである。

 

 「Ⅲ」では、継母の極悪非道っぷりが一線を超えてもう笑えてくる。シンデレラに魔法をかけた妖精から魔法の杖を奪うと、継母無双が始まるのである。ここまで清々しい悪役ぶりも、昨今ではすっかり珍しいのではないだろうか。こんなやつと再婚したシンデレラの亡き父親が諸悪の根源であるとしか思えなくなってくる次第である。

 

↓3作セットなんてのもあるのね〜

 

アラジン

ジャファーの逆襲の感想

盗賊王の伝説の感想

 

 私はアラジンという男をクズだと思っているのだが、この続編はそうした私の想いに同意してくれる作品である。1作目をきちんと鑑賞していただければわかることだが、アラジンは本当にどうしようもない奴で、お姫様のジャスミンはダメ男に熱を入れてしまう典型的なダメ女である。一度の優しさで「彼は本当はいい人なの〜」というタイプだね!

 

 「Ⅱ」は悪役ジャファーの復讐譚である。ランプの精となってランプに封印されてしまったジャファーが復讐しにきて、ランプから解放されたジーニーでは対抗できずどうしよ〜となる。しかしそんなことはどうでもよく、大切なのはアラジンが王宮でめちゃ嫌われているという点である。素晴らしい。衛兵から「このどぶねずみが!」などと叫ばれる。素晴らしい。

 

 「Ⅲ」はアラジンの父親にまつわる話である。まあつまりは盗賊王で、アラジンとジャスミンの結婚式を台無しにした張本人なわけなのだが、そんな事実が判明しても一国の王女はアラジンと結婚する。盗賊の息子で、本人の経歴もロクでもない人間と。これくらい国家に寛容さがあれば、相手が留学したまま延期だか中止だかよくわからないままになっている某国のプリンセスの婚約騒動もあっさり片付くことであろう。小さき島国の国民はここまで寛容ではないようである。

 

↓こちらも3巻セットがあったのね〜

 

ライオン・キング

ライオン・キング2の感想

ライオン・キング3の感想

 

 あの『ライオン・キング」にも続編があったのだ!

 しかも、『2』の出来はかなり良く、ぶっちゃけ『アナ雪2』なんかを劇場公開にするなら(トゲのある言い方)、十分劇場公開しても良かったのではないかと思うくらいの完成度である。

 

 『2』は前作の主人公「シンバ」の娘(なんとラストシーンで生まれたライオンはメスだったのだ!)が主人公となり、前作の悪役「スカー」とロミオとジュリエット的な絆を育みながら大冒険をする話である。こんな簡単なあらすじでもなかなか良さげじゃね?

 

 一方『3』は結構余計な話を作っちゃったな〜という印象の内容で、あのイノシシとミーアキャットがどのようにして『1』のストーリーに関わることになったかを描く「『1』の舞台裏」的な作品となっている。それが余計なのである。

 

 たとえば、シンバの父親がスカーに殺されるシーンは結構シリアスな場面であるべきだと思うのだが、実はあの2匹もその場にいてドタバタしてました〜テへ、みたいなことが描かれるのである。

 

 というわけで、『2』が好きで『3』が嫌い、という個人的な感想。

 

↓やっぱりあった3巻セット。

リトルマーメイド

リトル・マーメイドⅡの感想

リトル・マーメイドⅢの感想

 

 「Ⅱ」はアリエルと王子様の間に生まれた子供の話である。上記『ライオン・キング』と同じ構成である。というか、ストーリーラインもほとんど同じであるといっても過言ではない。

 ディズニー作品に出てくる「親」という存在は、やたらと子供に説明を端折るというダメな子育ての典型をするのだが、あれほど父親の姿勢に反発していたアリエルも、自分の子供には父親とまったく同じ姿勢で上から押し付けるような物言いをするので、子供はかつての自分のように反発し、どっかいっちゃうのである。「親の背中を見て子は育つ」の負の方面のスパイラルを描く作品であるともいえる。

 

 「Ⅲ」は一作目の前日譚で、海の中の物語である。独裁者(アリエルの父)に音楽を禁止された世界で、夜な夜な開かれる音楽パーティーに「あんだーざ・し〜」で有名なあのセバスチャンが参加していたことが発覚したため大騒動へと発展する。

 まあいつの時代も「禁止された物で反社会的勢力は潤う」という構図は同じなのである。禁酒法時代には酒が売れ、現在では大麻や覚せい剤が暴力団の資金源になっているのと同じように。

 

↓もちろんあった3巻セット

 

ターザン

ターザン2の感想

ターザン&ジェーンの感想

 

 私はターザンが嫌いである。なぜなら、自分の責任に無自覚だからである。『2』は『1』の前日譚であるのだが、『1』で描かれたターザンの無責任っぷりは幼少期から形成されていたということが丁寧に描かれる。こいつ、マジでクソだと思うのである。こういう奴が職場にいると非常に迷惑なのだが、こういう奴に限って周りの迷惑を考えずに自分いい仕事してる〜感を出すので、迷惑を被った点を大人の気遣いを含ませながらゆる〜く指摘すると、キョトン顔をされていっそう腹立つパータンなのである。

 

 『&ジェーン』の方が正当な続編というか後日談で、ターザンが住む島が近代化していて、ジェーンのかつての友達が平気でたくさん遊びに来たり観光ガイドがあったりする。『1』のラストでジェーンは迷った末にジャングルに残ってターザンと共に暮らすことを選んだのだが、これなら嫌になったらいつでも帰れる勢いであるので、そんなに悩まなくても良かったねという後日談でもある。

 

↓ついに3巻セットがない作品が……。「1」&「2」のセット。

 

わんわん物語

わんわん物語Ⅱの感想

 

 『Ⅱ』は『Ⅰ』の完全なる続編で、王道パターンである「前作の主人公カップルの子供」が主人公である。『Ⅰ』の主人公は野良犬だったが、無事室内犬と愛を育んだのでその子供は見かけは主人公にそっくりでも室内犬として育った。そのため「外の世界が知りたい!」と言いだし、例によってディズニー作品伝統のダメ親となった前作主人公が頭ごなしにダメダメ言うもんだから外の世界に飛び出した——という話である。『1』での悪役は子供を預かるには人間性に問題があった飼い主の伯母であったのだが、『2』で主人公が飛び出すきっかけとなったことを起こしたのは飼い主の息子であり、2作続けて観ると「この家系にはロクでもない奴らしかしない」と思う次第である。

 

↓2巻セットありました。『わんわん物語』という邦名がどうかと思う原題がわかるパッケージ。

 

アトランティス

アトランティス 帝国最後の謎の感想

 

 『アトランティス』といえば『ふしぎの海のナディア』のパクリで有名な作品である(ガイナックス社長の逮捕!)。1作目は『失われた帝国』というサブタイトルが付いており、ラストシーンで主人公はその失われた帝国であるアトランティスに残る選択をする。作品としては全然面白くないのだが、それでも続編が作られるあたりにディズニーの言葉にならない意地を感じる。

 で、続編である『帝国最後の謎』はアトランティスに残った主人公の後日談となるわけだが、主人公たちが雑なんだか出てくる敵がバカなんだかわからないが、とにかく大味な展開でドッタンバッタンする話である。まああまり面白くはない。

美女と野獣

美女と野獣 ベルの素敵なプレゼントの感想

 

 今までの作品群は「続編」か「前日譚」かのパターンであったのだが、名作『美女と野獣』の場合は少し毛色が異なる。

 

 『ベルの素敵なプレゼント』は、あの有名な二人のダンスシーンに至るまでを挿話として描いている。が、いろいろとつじつまが合わないところもあるのでパラレルワールド的な描かれ方をしているといえる。「細かいことはいーんだよ、うっせーな!」というディズニーの心意気を感じる作品である。

 本筋の作品では「オオカミに襲われたベルを野獣が助ける」という過程を経て二人の心が溶け合ってゆく(淫靡な表現)わけだが、この作品は「その後もいろいろピンチがあって二人は溶け合ったのです(淫靡な表現)ということを描く。オオカミに襲われたこととかもはや石につまずいた程度のことだったと思えるようなことが二人を襲うのである。

 

 『ベルのファンタジーワールド』は実は未見であるので何も述べることはできないが、4話構成のショートストーリーであるらしい。

ピーター・パン

ーター・パン2の感想 ネバーランドの秘密の感想

 

 フック船長はワニが苦手なのだが、その理由をみなさんはご存知だろうか?

「ワニに腕を食われたから」

 は間違いである。答えは

ピーター・パンに腕を切り落とされてワニに食われたから」

 である。ドラえもんが居眠りしてて耳を齧られたせいでネズミが苦手となったこととは明確に異なる線引きがここにはある。私だったらワニよりもピーター・パンが苦手になると思うのだが、そこはたくましく挑んでいくのがフック船長なのである。

 

 このように『ピーター・パン』という作品は、世間が抱くイメージと反して、決して生易しい物語ではない。

 

 『2』の冒頭にもそれは如実に表れている。主人公はディズニー続編シリーズの定番である前作の主人公ウェンディの娘であるのだが、まずこの娘の父(ウェンディの夫)が戦争に徴兵される。そう、時代は第二次世界大戦真っ只中なのである。主人公一家が住むロンドンは大空襲に遭い、ウェンディは娘(主人公)と息子(弟)を連れ、防空壕へ避難する。そこで不安がる息子に、ウェンディはかつて自分が冒険したネバーランドの話を聞かせ、落ち着かせようとする。しかし、娘である主人公は「夢見てんじゃないわよ! これは戦争なのよ!」と当然の怒りを露わにする。物語の展開上、主人公の言っていることが間違っているわけなのだが、普通だったらどちらに理があるかは明らかであることよ。。。

 そんな中、ふて寝をしてしまった主人公の元に、戦闘機の合間をかいくぐってック船長がやってくきて——というのがストーリーである。

 この他、ピーター・パンの性格が悪すぎて、ピーター・パン症候群ではダメだな、ということが暗にわかる話となっております。

 

 以上、『実はあのディズニーの名作には続編があった!』まとめでした〜

★★★★☆

 気持ちが空に向かっているか、自分を束縛するものから逃れるためか。という話。

 

私と自閉スペクトラム症

 ここでは自閉スペクトラム症(ASD)の詳しい説明は省いてしまうが、私の立場としては「普通の人よりはASDのことをよく知っている」と自ら明言しても差し支えない程度には、この障害のことを理解していることをここに記す。何が言いたいかというと、この記事は「障害について何も知らない人間が『無知による偏見』で書いているわけではない」ということである。だからこその批判というのもあるかもしれないが
 
 どの程度の理解かというのを一つ例を挙げて示すと、自閉スペクトラム症者の支援方法の一つとしてアメリカのノースカロライナ州発祥の「TEACCH」という支援プログラムが存在するのだが、「『TEACCH』と『トヨタ生産方式』における共通項」みたいなちょっとした論文を某研究機関に提出したのが数年前のことである。一般的に、障害者支援の世界に経済的観念を持ち込むのは嫌がられるものなのだが、あえてその辺に切り込みつつ、「健常者であろうが自閉スペクトラム症者であろうが、理解しやすく、行動しやすくする術は、根源的には同じ」みたいなことを述べようとして、両者を比較した話である。まあ大した論文ではないのだが。その証拠にウンともスンとも反応はなかったですからな(゚∀゚)
 もちろん自分なりに頑張って書きはしたのだが、頑張りと成果は単純な比例をするものではないという夏の甲子園で球児たちが毎年私たちに教えてくれる現実を身を以て知っただけである。
 
 ということで、ここでは私の論が合っているかどうかというのはまったくもって横に置いといて、自閉スペクトラム症についてそれなりに勉強してるんだよ〜ということを示すものとして初めに記した次第である。
 
 ただ、「自閉スペクトラム症」と書くのと「自閉症スペクトラム」と書くのとどちらが正しいのか今もってわからない私なのだが。どちらが正解なんですかね?(どちらも正解という答えは好きではないです、はい。どちらも正解で合っても、表記する際には統一してほしい)

自閉スペクトラム症の世界

 著者の東田氏はテレビにも何度か出演しているので、その様子を見ると氏がかなり重度の自閉スペクトラム症であることがわかる。だから率直にいって、この本の研ぎ澄まされたような文章とのギャップが物凄い。正直、「これをあの自閉傾向の強さで書いたなんて信じられない」という気持ちにすらなってしまう(疑っているわけではなく、それくらいギャップがあるという話)。

 

↓こんな感じの人です

 

 自閉スペクトラム症者を支援する側が抱きがちな共通認識としてもはや議論されることすらないような「常識」が、この本によって、ある意味では覆ったことがいくつかある。その中でも大きなこととして、

 

①自閉スペクトラム症の人でも、他人のことをとても考えている

 

②「跳びはねる」のは、好きでやっているわけではない

 

 という2点が挙げられる。

 

 ①については、「自閉症」という障害名が付けられたことからも明らかなように、そもそも自閉スペクトラム症の人は「自らに閉じこもっている」という印象を人に与えることが多い。「自分の世界」の中だけで物事が完結しているように見えることが多いし、何より「人の気持ちを考えられない」というのは自閉スペクトラム症の主要な症状として挙げられる点である。

 しかしながら、本著の中で作者は再三にわたって、自分の障害によって周囲の人間に迷惑を掛けることを「申し訳ない」と述べ、さらには「それによって見捨てられるのが怖い」と言っている。というかもっと直截的に「人のことを考えていないように見えるかもしれないが、心の中ではいつも迷惑ばかりかけて申し訳ないと思い、自分が惨めになる」といったことや、「僕たちだってみんなと一緒にいるのがいいのだけど、人に迷惑を掛けていないかと気にするのが辛くなって、ついひとりになろうとしてしまう。そしていつの間にかひとりでいることに慣れてしまった」というようなことを述べている。

 

 この文章だけ読むと、周囲の反応を気にしすぎてクラスに馴染めず悩む中・高生と想いは一緒であるという印象である。

 

 ただ、このへんは支援者の感覚的には「まあそうだろうな」と思う面と、「とは言っても……」と思う面と両方あるのではないだろうか。

 

 問題を細分化していくと、結局は考えるべき事が自閉スペクトラム症だけではなく、それに付随する「知的障害」という側面——ひいてはその人の「認知の力」等もかなり関わってくることになる。かなり高い学力がある一方でアスペルガー傾向と診断され確かに全然人の都合とか気持ちとかを考えない人もいるし、知的にはかなり幼く学力も低い自閉スペクトラム症の人がふとした気遣いを見せること等もあり、結局は「個性」の一言で片付けられてしまいそうな問題である。つまり、「作者・東田直樹の個人的な話」として飲み込む支援者もいることだろう(自分が関わる自閉スペクトラム症の人との関係で悩んでいる人ほど)。

 

 つまり、「この人はこんな文章が書けるくらいに特別な力があるから、このように思えるのだ」といった着地である。そういった想いを抱く支援者は、語弊を恐れずいえば、恐らくは自分が関わる自閉スペクトラム症者から何らかの理不尽な目に遭っている可能性が高い。

 支援は、決して綺麗事だけではない世界なのは、いうまでもない。

 

 ②については、もちろん「跳びはねる」だけではなく、自閉スペクトラム症の人は独特な繰り返し行為を突然始めることが珍しくない。多くの場合、それらの行動は社会生活の中においては正直いって「余計な行為」なので、多くの支援者たちは「なんとかやめさせられる手立てはないか」ということを考えたり、「満足いくまでやらせてあげられる場所・手立て」というのを考えたりしている。

 これらの行動は専門用語的には「センソリー・ニーズ」などと呼ばれ、定説としては無理に止めるより気の済むまでやらせる方が良いとされている。というか、無理に止めるとパニックになることが多いので、結果として結局気の済むまでやらせることになることが多い。

 

 ただ、このことに対する支援者たちの受け止め方が問題である。

 

 多くの場合、どんなに止めても何が何でもやり抜こうとするそうした行為とその姿に、周りの者は「わがまま」という印象を抱いてしまう。「人のことを考えないで自分の我をとおした」「何が何でも自分の思ったようにする」という姿に映るのである。

 

 そこに、「好きなことを抑えられない」という我の強さを見るのである。

 

 ただ東田直樹によれば、実はこうした「センソリー・ニーズ」に伴う行為は、「自分たちも好きでやっているわけではない」ということらしい。作者の言葉を借りれば「自分の思いどおりに体が動かなくなり、縛られた縄を振りほどくように、ピョンピョン跳びはねる」ということらしい。それは嬉しいときにも嫌なことがあったときにもあるとのことであるし、突然そうなることもあるらしい。

 

 「好きでやっているわけではない」という認識をもてれば、彼らのその姿を「わがまま」と見ることはあるいはなくなるかもしれない。場合によっては「苦しんでいる」という見方にもなるかもしれない。

 

 余談だが、自閉スペクトラム症の人は、そもそも自分の思い通りに体を動かせないことがとにかく多い。いわゆるコーディネーション能力が低いのである。そういったことの延長上に、こうしたことの原因があるのかもしれない。

 

 他にもいろいろと、自閉スペクトラム症にまつわるいわゆる「一般的な見解」に対して、東田直樹がいろいろと「反論」しているので、自閉スペクトラム症の世界に何らかの形で携わっている人全てが一度は読むべきであろうと、いつもにはない熱量で思う。すぐ読める分量だし。学術書みたいにバカみたいに小難しい文章を並べ立てているのではなく、むしろ素直で平易なとてもよい文章である。

 

 マジな話、これくらいすっきりとした文章で自分の言いたいことが書けるようになれれば、このブログももっと読みやすくなるだろうに……と自分に心底ガッカリしてしまう今日この頃。

他の自閉スペクトラム症の世界

 本著以前にも、割と昔から「自閉スペクトラム症の本人が書いた本」というのは存在する。代表的なのがドナ・ウィリアムズの『自閉症だったわたしへ』だろう。
 
↓なかなか独特の文体なので「自閉スペクトラム症者を理解したい!」というモチベーションがないと読み切るにはたぶん苦労するかも(訳者のせいかもしれないけど)

 

 それらの本は当然、非常に価値のあるものであることに疑う余地はない。なんたって支援者たちが知りたいことに当事者が答えてくれているわけなのだから。

 しかしながら、それでも存在する一つの壁として、「とはいっても本が書けるくらいに能力が高いじゃん」という支援者の愚痴めいた本音があることもまた事実である。なぜなら、支援者たちが本当に困っていることの大半は、もっと重度の自閉スペクトラム症者への対応だからである。本が書けるということは、言葉による話がかなり通じるということでもある。語弊を恐れずいえば、本当に知りたいのはそれが難しい人たちの気持ちだという想いが支援者たちの心のどこかには残る。

 

 今まで刊行されてきた当事者たちの本は、想像を絶する努力と苦難の果てであることは間違い無いことではあるが、社会との接点を築くことに成功した自閉スペクトラム症者の話であるということでもある。タイトルにあるとおり、「自閉症だった」という、障害の克服がそこにはあるのである(訳者のせいかもしれないけど)。もちろん、その後だって大変な人生だとは容易に想像できるが。

 

 実は本著の価値というのは「今までの自閉スペクトラム症者が記した本とは一線を画す」ことにあることが巻末の「解説」でも述べられている(ちなみに解説を書いたのは本著の英語版訳者で、自身の子もまた自閉スペクトラム症という人)。

 本著の作者・東田直樹は、

 

①かなり重度の自閉スペクトラム症である

②本著を中学生のときに書いている

 

 という2点において、今までにないパターンなのである。

 

↓①をわかりやすく示す、東田直樹がメディアで有名になった番組

 

 特に②はかなり珍しい。文章を読む限りは、自閉スペクトラム症どころか、中学生であることすら信じられないくらい文章が洗練されている。簡潔で、わかりやすく、しかしどこか子供っぽさの残る文章で綴られている(もちろん編集者による手直しはあるだろうが、それは東田直樹に限ったことではなく全ての作家にいえることである)。

 

 「かなり重度の自閉スペクトラム症者の言うこと」ということと「まだ中学生の子供が言うこと」ということとの狭間で読者側が揺れることになる。そこに、本著の読み物としての面白さがある。そう、この本は研究論文でもなければ障害の専門書でもなく、「中学生が書いた優秀な文章」という点に私は魅力を感じるのである。感覚としては、公募作文の優秀作品集を読んでいるような感覚である。子供らしさや素直さが滲み出る文章の中に、支援者たちが知りたかった答えが書かれているのである(たとえ一個人による見解でしかないとしても)。障害に関する堅苦しい学術書ではないのに、学術書では計り知れなかった事柄が書かれていて、でも13歳の中学生が述べる個人的見解である点に、障害者の支援に真摯に取り組んでいる者ほどまた新たな悩みに身悶える。

 

 ここに書かれていることは、正しいのか、正しくないのか。

 自分が関わる自閉スペクトラム症にも同じことがいえるのか。

 

 しかし、作者が、支援者たちが抱える悩みのかなり近いところにいる存在であることはまぎれもない事実である。だから、すべての言葉が、結局は無視できない(たとえ納得いかないことでも)。

 

 そういった悩みを抱いた真摯な支援者は、こうした「他の当事者の本」もまた読んでみるとよいのではないだろうか——と偉そうに語っているが、読んだところでまたいろいろと悩むんだけどね〜

 

↓堅苦しく思わず読める点が良い点であり、最後には偉い人たちから「相手にしていない」的な形を取られそうな点でもある。特に「視覚的なスケジュールを示されるのは、実は苦しい」という点は、結構業界に激震が走る話であると思うのだが……

今まで観た映画

★★★☆☆

 お金のことがわかると、世の中のことがよくわかる——という話。

 

合格率70%台というプレッシャーが私を蝕むのです

 FP(ファイナンシャル・プランニング技能検定)3級とは、税制や保険、資産形成といった「世の中のお金のこと」を学ぶ技能検定である。お金のことというとなんだか難しいイメージがあるだろうが、3級の合格率は実に70%を超えるという数字だけでみると漢検4級程度みたいな難易度である。
 
 が。
 
 内容は決して漢検4級ではなく、結構難しい。本気で学ぼうと思ったらやはり社会人経験がある人の方が何かとイメージがつきやすく、勉強しながら知識が血肉となっていくイメージがもてるであろう。それくらい、社会に密接に関係した知識群であることは間違いなく、久々に「勉強して良かった〜」と思える資格であった。まあ受検会場にいた大半は大学生であったが(会場が某大学だったからかもしれないが。何らかの講義で扱っているのかも)。
 
 で。
 
 不安だったが、無事に合格しました〜という自慢ね、これ。
 
↓「右の技能士の名称を称する」ことは一生ないでしょう
↓完全合格って響きがなんか恥ずかしい……セルの完全体的な
 
 70%以上が合格しているというと、逆に不合格になったらダメ人間のレッテルを貼られるような不安感がハンパない(原付の試験に一度落ちた人間のトラウマ)。
 
 ただ正直にいえば、合格したからといって全ての知識が身に付いたというわけでは無論ない。そして、この点がこの資格の異様な合格率の高さの要因ではないかと考えている。
 この資格、問題が「○×」の「2択」か、多くて「3択」なのである。
 
 そりゃ楽だわ、と思っちゃうよね〜
 まあもちろん、私のような非常識人としてはノー勉強で合格など絶対にできないのだが、「わからなくても正解できる率」が高くなるのは当然である。その上、例えば試験では電卓の持ち込みが可なのだが、私は本番で一度も電卓を使わなかった。それどころか、練習段階でも正直一度も使ったことがない。にも関わらず、計算問題で間違ったことはほぼない(少なくても記憶にはない)。なぜなら、不正解の選択肢が明らかにありえない数字だからである。感覚的には「8%の消費税額が頭の中でざっくりと計算できる」程度の計算力があれば、不正解の選択肢が明らかに違う数字なだけに、正答が簡単に選べるのである。
 
 このように、「他の選択肢が明らかに誤り」というパターンが結構あって、そりゃ合格率高いわと率直に思った次第である。満点取れてないのにデカイ口叩いているけど。

年末調整に向けて

 11月といえば年末調整である。今まで年末調整は「めんどくさい」の一言しかなかったのだが(別にめんどくさいというほど入力項目ないけど)、その否定的な気持ちの根源は何だったのかが今回初めてわかった。
 
 要するに、今までやってることの意味がよくわからなかったのである(30半ば過ぎのおっさんの件)。それが昨年度までとは一転し、FP3級程度の知識でも、入力項目の内容や意味がわかるようになったので、むしろその知識を周りにひけらかしたくて超ウザい人間と化した私です、はい。「配偶者控除」のみならず「配偶者特別控除」の概要を語って聞かせたった隣の席の若い女の子(独身)に「私こういうこと全然わからないので、すごいです!」と尊敬の眼差しで見つめられる快感に浸っていたものの、今思うとすげーめんどくせーやつと思われた率85%である。こうしてウンチク語りのウザい親父になってゆくのだろう(というかもうなってる説)。
 
 人間は自分のやっていることの意味がわからないと強いストレスを抱くようになる。それが一つ、明確に解消されたことは、今回の勉強の大きな「やってよかった感」である。

自営業者はつらいよ(社畜で良かった……いや、良いのか?)

 今回生まれて初めてきちんと「お金のこと」を勉強してわかった大きなことの一つに、会社員はかなり優遇されているということである。というか、自営業者はマジでサバイバーであるというか。ガンガン稼いでいるようなフリーランスであれば話は別だろうが、その辺にある個人経営の喫茶店とかこじんまりしたケーキ屋さんとかって、一生働くことを前提としているような社会の仕組みになっているんじゃないかと思った。
 
 例えば、年金一つとっても「厚生年金がない」(国民年金しかない)というのは、「死ぬまで働いてね」と言われてるようなものなんじゃないかと思うくらいである。国民年金のみでも自営業者の場合は多少もらえる額が大きくなる方法はあるが、会社に半分負担してもらえる厚生年金のお得さと金額には到底かなわない。
 
 その他パッと思いつくものでも、会社員は健康保険や介護保険も会社と折半だし、さらに労災保険が全額会社負担で付いてくる。簡単に言えば、この辺のことを自営業者は全部自分で負担しなければならない。つまり、会社員は制度上は会社に非常に守られているといえる(うちの会社の上司は、同僚の労災手続きをほったらかしたまま転勤していった。という実話)。
 
 非常に単純に考えると、自営業者でやっていくなら、もし純利益がその辺の会社員の手取りと同程度だとしたら、実質は会社員よりかなり損をしているという見方もできる。この損を実際に体感するのは、例えば年金を受け取る段になったときであったり、仕事上で大きな怪我を負ったときであったり、もっとわかりやすいところでいえば「国民健康保険料」を納付するときであったりである。
 
 誰にも支配されないということは、誰にも守ってもらえないということでもある。
 
 自分の好きなことだけをして生きていきたいな〜というまるで売れないYouTuberの代表例のような想いを抱いていたのだが、今では「会社員をしつつも自分の好きなことが金になったらな〜」という超逃げ腰な姿勢へとすっかり転換された。ブラック企業に勤め上げろとはまったく思わないが、税制や社会保障の面では本当に社畜の方が優遇されているな〜というのが率直な意見である。これも国の策略なのか⁉︎

持ち家派か賃貸派か(個人的見解)

 持ち家か賃貸か——これは永遠のテーマともいえる。
 
 ネット上でも、youtubeの動画上でも度々話題にされるこのテーマ、今回の勉強により私の中では「自分の人生にとっての」答えは大体出たといえる。いや、マジで。なお、他の人の人生が私と同じであるわけはなく、また所詮はFP3級程度の人間の考えであることを踏まえてお読みいただき、各々考えていただければよいかと思います。
 
 先に結論から述べると、私としては
 
「30半ばを過ぎても家を買ってないなら賃貸」
 
という結論である。そして私は30半ばを過ぎても家を買わなかった(買えなかった)ので、もう賃貸である。残念すぎる人生……
 

賃貸の場合

 まず、費用的な面を考えると、私は賃貸の方がトータルでは安いという考えの持ち主である。なぜかというと、私の会社は「家賃補助」があるからである。家賃によってその補助の額は上下するが、最大で27000円まで補助が出て、私は27000円がギリギリもらえる家賃の家に長いこと住んでいる(セコさの爆発)。つまり年間で30万円以上毎年補助が出ていることになる。
 
 私はネットの記事やYouTubeの動画でこの手の解説を何本も観たり読んだりしたのだが、この点に言及されているものがまったくなかったのが不思議であった。議論のテーマはいつも「持ち家を資産と見るか負債とみなすか」の話ばかりで、「家賃補助が〜」とか「社宅なら〜」という会社独自の制度に踏み込んだ話は今のところ読んだことがない(読んだことがないだけかもしれないが)。もちろん「持ち家を買うなら資産となり得る立地のものを買おう」という話も超大切だと思うが。
 
 また賃貸は設備費用が掛からないところも魅力である(引っ越す時にある程度掛かるが)。例えば、先日私の家の給湯器が壊れお湯がまったく出ないという悲劇に見舞われたのだが、管理会社に連絡したら翌日には新品に交換されたという迅速さであった。その上、アパートは大家の持ち物であるから当然といえば当然だが、交換に関する費用はまったく掛からなかった
 これが持ち家であったならば、まず給湯器の交換てどこに頼めば良いのかから自分で調べなければならない。もちろん費用もすべて自分もちである。
 
 他にはよくあることでいえば、排水溝の掃除等も定期的に行われ詰まりが解消されたり、外壁の修繕が行われたりする(もちろん無料)。つまり、家を維持するためのメンテナンスは大家の仕事であり、そういったことを考える必要もなければ、修繕のための積み立てを一切しなくてよいのが大きなメリットとしてある。
 
 そして昨今の話題のニュースからは、災害で家が壊れても引っ越せばよいという身軽さも一つのメリットではあると感じる。家が壊れれば賃貸であろうがもちろん失うものはいろいろとあるだろうが、少なくても「家は失ったが住宅ローンだけは残った」という可能性はゼロになる。
 
 その身軽さ繋がりで、「いつでも引っ越せる」という身軽さも、ご近所トラブルに対する憂鬱さを下げてくれる。ご近所トラブルで引っ越したことはないが、大家の過干渉が嫌いで引っ越したことはあるが……(その後、不動産屋で家を探すときの条件に「大家が近くに住んでないこと」というものが加わった)。
 
 もちろん「家賃補助なんてねぇよ( ゚д゚)コロスゾ」という会社にお勤めの方もいらっしゃるだろう。そういった方は金銭面でのメリットは非常に激減するので、かなり事情は違ってくるだろう。
 ちなみに私は、もしも家賃補助がなかったら(もしくは今の額より相当低かったら)迷わず持ち家派となっていたと思う。
 
 一方で、賃貸派の最大の問題は年老いたときに家を借りられなくなるかもしれないということである。ある意味当然のことながら、貸主はお年寄りには家を貸したがらない。現在では高齢者向け保証付賃貸物件のようなものがあるにはあるが、選択肢はかなり限られることとなる。この問題を解決する何らかの術を確保していなければ、それこそ人生詰むだろう。そういっためんどくささは間違いなくある。特に子供がいない場合は(賃貸契約の将来の保証人)、このことをどこまで考えられるか——かなり難しい。
 

持ち家の場合

 まず私は、持ち家の中でも「マンション」は金銭面でのメリットは意外と少ないと考えている。私の実家は、私が生まれてすぐ建てられた現在築30年以上のマンションなのだが、そこに住み続ける母親の実像からそう考えるに至った次第である。
 率直にいえば、現在では母親が一人で住むその4LDKの家は、ローンが完済されたにも関わらず、いまだに毎月2万9000円の支払いがあるのである。いわゆる修繕積立費&共益費というやつである。ちなみに駐車場は無しでこの額である。
 この額の実感として、私が大学生のときに住んでいたアパートが共益費込みで3万2000円だったので、正直「家賃とあんまり変わらんじゃん」というのが率直な感想なのである。それに加え持ち家であるので、当然上記の金額にプラスして固定資産税が毎年かかるわけだし(ここでは「家の広さが全然違うじゃん」ということは考えず、あくまで「一人で住む家の費用」という点で考える)。
 
 マンションの金銭的なメリットは、戸建に比べて購入価格が安いという点に尽きると思っている。職場で隣の席であった女の子(人妻)が、ちょうど私がこのFP3級の勉強をしているのと同時期に「一戸建ての家を購入する」ということだったので(ちなみにど田舎←オイ)、見積書を見せてもらったり、不動産屋やそれこそ本業のファイナンシャル・プランナーがした話を聞かせてもらったりしたのだが、率直な感想としては一戸建ては超高いと思った。やはり「土地代」+「理想の注文住宅」は一生の買い物で失敗の許されないものであると思った次第である。単純に「家の購入代金」という点でのみ考えるならば、戸建てを建てるお金でマンションなら2部屋買えるといったような値段であった(もちろん億ションとかなら別ですが〜。あくまで「分相応の家を買う」という次元で)。
 
 上記でも記したようにマンションの場合は「修繕積立費&共益費」が一生掛かるし、当然固定資産税も掛かる。それなのに、持ち家のせいで家賃補助が出ないというのが、私がマンションに魅力を感じない最大の要因である。
 修繕積立費も共益費も必要経費なので無駄ではなく、戸建ての場合も特に修繕費の積み立ては必須であるので、「別に損ではない。必要なものだ」とおっしゃる方もいるだろう。しかしながらここではあくまで「賃貸か、持ち家か」を比べているのであって、「戸建か、マンションか」はまた別の話なのである。「賃貸か、持ち家か」の観点で比べると、マンションは、持ち家の最大の魅力である「ローンを払い終わったら後は何も払わなくて良い感」がかなり薄いと思うのである(というか、無い)。話が最初に戻るが、私の母親は、ローンを完済してなお学生アパート並の「家賃みたいなもの」を払い続けているのである。そしてそれが終了することは文字通り死ぬまでない(というか死んでもあるというか)。
 歳をとったら、身の丈にあった安いアパートに引っ越せばよいのでは——と私が考えるに至った実例である。
 
 ということで、私は購入するならたとえ初期費用が莫大であろうが戸建一択なのである。では、夢のマイホーム「一戸建て」の購入の場合はどうなのか。購入するのならば30歳までに購入に踏み切っておきたいというのが私の考えである。なぜなら、多くの人が「フラット35」を利用して35年ローンを組むと思われるからである。で、再雇用を含めて65歳まで働いて完済するような返済計画が非常に健全なのではないかと単純に思うからである。
 
 「繰上げ返済すれば〜」と思うかもしれないし、それはその通りなのだが、「あくまで計画は健全でありたい」というのが私の個人的な考えである。70歳以上になるような返済計画で資金を借りて、繰上げ返済することを前提とした計画で返済していこうと考えるのは不健全であると私は考えている。繰上げ返済はあくまで「計画の前倒し」であって、やらなければならないという前提で動くのは非常に人生を苦しくするような気がするのである。
 
 もちろん、何歳になろうがどうしても購入したいという方を批判するつもりは一切ない。あくまで、私夢のマイホームあきらめました……という個人的な話である。
 
 マンションであろうが一戸建てであろうが、賃貸でいうところの「家賃補助」にあたるような金銭面でのキーポイントは、俗にいう「住宅ローン控除」である。

住宅ローン控除を考えてみる

 住宅ローン控除は簡単にいえば「10年間に限り住宅ローン残高の1%が所得税から還ってくる」という制度である。上限は住宅ローン4000万の1%、つまり40万円である。
 最大で40万円還ってくるので、先の「家賃補助」で30万円以上もらえる〜ということと比較すると少なくても10年間はこちらの方がお得なような気がするのだが、ここで私は言いたい。40万も所得税納めてるほど給料高くねーだろと。正確には、所得税だけで控除額に満たない場合は住民税からも控除されるのだが、その場合は所得税からの控除よりもかなり少なくなる計算方式となる。ので、単純に考えるためにちょっと横に置いておく。
 
 何が言いたいかというと、普通のサラリーマンだと住宅ローンを借り始めた10年間で40万円も控除される奴はそういないということである。30歳までにローンを組んだなら、尚更である。えっ? スーパーエリート社員なの?
 
 詳しい数字はさすがに控えるが、私の現在の年齢における給与(における所得税)で計算しても、とても上記「家賃補助」の年額には及ばない。だから、金銭面ではどうあがいても賃貸には勝てないのが、私を取り巻く環境なのである。
 
 ただし、住宅ローン控除は夫婦でローンを組めば一人ずつ受けられるというミラクルがあるので、共働き夫婦で双方の給与(における所得税)がそれなりにあるならば、上記「家賃補助」の額を超えることができる可能性がかなり高い。よくあるパターンは、「土地は奥さん、うわものは旦那さん」みたいな形でローンを組んで、二人で控除を受けるパターンである(別にマンションでもローンを分けてそれぞれ組めば良い)。そう考えると、「独身時代に先に家だけ買っておく」というのは、実は恋愛面だけではなく、金銭面でも不利になる可能性がかなり高いのである。だって、すでにローンは一人で組んでしまっているはずですからね……。二人で借り換えをしても良いけども、その場合でも入居から10年間しか控除は受けられないわけなので、二人分の控除を受けられる期間は短くなるわけで(まあ家を買わずに賃貸で支払い続ける家賃とかを考慮すれば話は複雑ですが)。
 

お金だけでは測れない人生の損得

 以上いろいろと浅はかなる知識で好き勝手述べてきたが本来私は何を隠そう「夢のマイホーム派」である。できることなら、もちろんガレージ付きの一戸建てが欲しかった。賃貸狭いもん。ガレージ欲しいもん。自分の居場所が終のすみかであってほしいもん。
 
 でも、うちのアパート、インターネットがタダなんだもん。無料が当たり前になってしまうと、いつの間にかお金を払うことに抵抗をもつようになるという人間の我儘。。。
 ——というような様々な面で、やはり金銭的なメリットを色々と感じてしまう賃貸住宅の現状。
 
 今の年齢で住宅ローンを組むことにはかなりの抵抗があり、「その考えって正しいのかな?」と思ったことが、そもそもお金のことを勉強したい——FP3級を受検してみようと思ったきっかけでもある。で、勉強した結果、やっぱきっついな〜というのが正直なところなのである。やはり住宅ローンは65歳までに完済する計画で組みたい。そして60歳から65歳の年金支給空白期間に「再雇用やだ!」を目標に自分がそれを望むから繰上げ返済を頑張っていきたい。「繰上げ返済をしなければ大変なことになる」という状況は、正直しんどいね……
 
 まあ、これもネット上に氾濫する個人の一意見として読んでいただければ幸いである。
 
 
↓POPでカジュアルな構成がとても見やすく、勉強への敷居を下げてくれるFP界のベストセラー。が、POPでカジュアルな割に内容は超お堅いのでそのギャップを嫌がる人もいる。大変勉強になって私はこの本を選んで良かったな〜と思うが、合格だけを望むなら正直かなりのオーバースペックである。「全部覚えるなんて到底無理!」という不安はそのまま試験への不安に直結する。が、試験を受けて拍子抜けである。

↓今の時代、一問一答形式の試験の過去問はスマホアプリで十分かな〜と思いつつも、なんとなく不安が残りなんとなく買ってしまった。結果、スマホアプリをスキマ時間にやり込んで、この本は一冊最後までやりきれなかったが、全然余裕であった。購入するなら、午後試験の過去問を中心に知識を確認するのが吉である。

今まで観た映画