■我が国を敗戦させるためにはしょうがなかったという性根


やっぱり引き合いに・・・


久間防衛相:発言に被爆地から怒りの声 一方で複雑さも

http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/feature/news/20070701k0000m010128000c.html

(毎日)



 原爆投下を「しょうがないなと思っている」と語った久間章生防衛相の発言に、長崎、広島の被爆地から30日、怒りの声が上がった。一方で、元長崎市長の本島等さん(85)は「日本の戦争責任をもう一度考えるきっかけを与えてくれた」と一定の理解を示し、原爆投下の総括ができていない被爆地の複雑さものぞかせた。


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 原爆投下を巡っては、昭和天皇が75年10月の記者会見で広島への投下について「遺憾に思っている。戦争中のことなので、広島市民には気の毒なことであるが、やむを得なかった」と発言。本島さんは「当然の認識で僕も同感。久間さんの発言も同じで、原爆の肯定だ、容認だと批判するのはおかしい。天皇陛下も原爆容認論だと批判するのか」とも指摘した。


久間発言と先帝陛下のお言葉とは全然意味が違うのに同列に・・


久間発言は、原爆戦略有効論としての「しょうがない」。

陛下のお言葉は、今次大戦で原爆がどこかで使用されることは、「やむを得ない」

流れであったということ。


つまり、大戦中の各国の原爆開発競争の流れから、どうすることもできなかったとの

意味でのご発言であることは、戦中においてさえ、

原爆の脅威を知っておられた事を考えると、


本島氏や久間さんのそれとは全然違うのでありまして

これは例の富田長官の答弁ではありますが、議会にて説明されている通りでしょう。



原爆投下そのものについて限って申しまするならば、恐らく陛下のお気持ちとしては、当時自分にはそれをとめることもどうすることもできなくて遺憾であったという意味をお述べになっているように拝察をいたしております。


で先帝陛下と原爆については、世間で一般に知られているような背景ではなくて

我が国が核開発に関して、実際はかなり進んだ段階まで及んでいたという、

もちろん物理的限界はあったんですが、

当時、主要国が原爆開発競争を展開しており、

そのことについて陛下も詳しく知っておられた。


極秘司令

昭和天皇の「極秘指令

平野 貞夫



昭和20年2月


『杉山元』元帥が、私邸に来ていた岩田氏にこう言った。


「岩田君、君は軍籍のない一民間人であるにもかかわらず、この戦争では日本軍のため挺身して偉大な貢献をしてくれ心から感謝している。
その労苦に報いるためにも、一日も早く新兵器を開発し、劣勢を挽回すべく懸命の努力をしていたが、事情があって残念ながら『新兵器』製造は中止した。実は『御上』から強いおしかりを受けたのだ。」


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日本の原爆開発が本格化した頃、当時の首相、『東条英機』がその旨を昭和天皇に上奏した。
彼は、「起死回生の決定打として、天皇に喜んでいただける」・・・と思っていたようだ。


しかし、昭和天皇は『意外に強い口調』で反対されたという。

「数カ国が新兵器開発を競っているとのことだが、日本が最初に完成し使用すれば、他国も全力を傾注して完成させ使用するだろうから、全人類を滅亡させることになる。それでは、人類滅亡の悪の宗家に日本がなるではないか。」

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杉山元帥は再び入閣し、陸軍大臣となった。彼は秘密裏に、再度原爆開発を急がせた。
ところが新兵器を積むロケットの燃料製造過程で誤爆事故が突発。
天皇陛下の耳に入った。

杉山元帥は、こう述懐する。

「天皇陛下から呼ばれた私は、『まだやっていたのか!』と強く叱責され、まことに面目なく、これ以上開発を進めることはできなくなった。


私は、日本が勝っても負けてもこの責任は取る覚悟だ。例え勝てたとしても天皇陛下の大御心(おおみごころ)を煩わせた罪は万死に価いする。さらに多くの部下を死に至らしめた責任から逃れることはできない。


ここで話したことは誰にも話さないでくれ給え。この事を知っている者は、天皇陛下と東条と自分だ。」


・・・
杉山元帥は、敗戦直後自決した。
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結局、天皇の原爆製造に抵抗する言葉は、遠い未来・・・日本が苦難を乗り切った後の世に向けた言葉だった


我が国の核開発については

五島勉さんが調べられているんですが

トンでも風評もあり、躊躇しつつ・・・


『日本・原爆開発の真実』について

http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hc/a6fhc112.html


一般的なイメージより、我が国開発は進んでいたようで、

ただ実際には、頭脳に物資や体制が追い付いていなかったのは確かでしょう。


理研二号研究阪大分室について

http://www.viva-ars.com/bunko/fukui/fukui-6.pdf


しかし、かなり具体的な可能性自体は否定できないようで
こんな記事も(原爆開発とは直接的なあれはないのですが)


幻の加速器、台湾で復元/72年前に日本の学者が製作

http://202.216.105.26/tokushuu/scramble/scramble2006/20060708.html

(東奥日報)



 部屋の中央にあるのは「コッククロフト・ウォルトン型加速器」。現代の物理実験に使う一周数キロ―数十キロの円形加速器と違い、四メートル四方の枠に収まる小ぶりな装置だ。七十二年前、この場所に荒勝文策(あらかつ・ぶんさく)京都大名誉教授(一八九〇―一九七三)ら日本の物理学者が作ったのと同じものだ。

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 日本の加速器では三七年に仁科芳雄(にしな・よしお)博士が完成させたサイクロトロンが有名。

 張さんの調査に協力した小沼通二(こぬま・みちじ)慶応大名誉教授(素粒子理論)は「荒勝教授らは英国のわずか二年後に加速器を作り、米国で発見されたばかりの重水素も作って実験に使った。もっと評価されていい」と言う。


事実、核開発の「知」の部分に関しては、

彦坂忠義・荒勝文策・仁科芳雄博士といった世界屈指の科学者が存在し

その論文は「原爆理論のさきがけ」という人もおられます。

ただご本人たちは、兵器利用など考えていなかったようです。

どちらにしろ、戦後の湯川博士の功績などに見られるように

我が国物理学の「知」の部分は最先端であったわけです。

先帝陛下は、仁科博士らに書簡で質問されたり、

研究所で説明を受けておられます。

一般では知られていなかった時にすでに「核兵器の恐怖」を

漠然とした想像ではなく、理論的な説明を元にご理解されていた・・・

これは事実でしょう。



何が言いたいのかというと


久間発言と昭和天皇のお言葉とはまったく次元が違うということです。


我が国を敗戦させるためにはしょうがなかった



人類が核を使う事・・はどうしようもなかった


の違い。

それを本島氏なんぞは同列に掲げようとする。