昭和天皇 護国神社ご参拝 「A級」合祀後途絶える(産経)


これもわかりにくい記事です。

ミスリード・・・

結局宮内庁としては波風立てたくないわけで矢面に立たされるのが嫌なんでしょう。

宮内庁の国会答弁であるように親拝は合祀(柱数)がまとまった時のような

年に行われたのできっかけ云々は別の話です。

↓多分護国親拝に関しては直接の原因はこの質疑でしょう。


87 - 参 - 内閣委員会 - 8号 昭和54年05月22日


○野田哲君 

天皇の植樹祭、この公的行為について地元の地方自治体は大変なこれは負担をさせられておりますね、天皇が行かれるために。たとえば道路の改修、舗装その他ずいぶんな負担をさせられているわけです。それはそれとして、昨年の植樹祭の場合を考えてみると、この植樹祭で高知県に行かれて、そして植樹をされる現場の途中で高知県の護国神社へ参拝をされている。公的行為の途中で神社に参拝される、これは政教分離の精神に少し問題を感じるわけですが、その点いかがですか。


○説明員(富田朝彦君)

 昨年の春の高知県下での植樹祭の際に護国神社にお立ち寄りになったことは事実でございます。そこでいまお尋ねでございますが、この護国神社にお参りになりますのは、たしか昭和三十二年ごろから、たとえば国体でありますとか、たとえば植樹祭でありますとか、そういうような行事がその土地に行われました折に、いわゆるその植樹行事のほかにそれぞれの開催県におかれましてはいろいろな福祉施設あるいは教育施設等をぜひ視察をされたいと、こういう希望が非常に多く出るわけでございますが、そういうものを御視察なさりますそういう道筋に当然おありになることが多いわけでございまして、そういう意味ではそこへお立ち寄りになってお気持ちを表せられるというのでございますが、これは、じゃ何の行為かといまお尋ねでございますが、これは私どもは陛下の私的な行為、かように考えて今日に至っております。ただ、その際また改めて宿へ戻りまして別立ての車というわけにもまいりませんので、いわば県内を御視察になられるために御乗車になっている車が、いわばそこの近くまで参って陛下をおおろしするということはございます。しかしそこに何かお供えというような意味でなされますことも、すべてこれは陛下のポケットマネーと申しますか、私的なお金の中から支出をされておられるわけでございます。

○野田哲君 

これは富田長官、ちょっと私は詭弁だと思うんですよ。一般の公務員の場合は特別公務員であろうと一般の公務員であろうと、出張のために平常勤務の場所から、たとえば東京から広島なら広島へ行って帰るまでが、これが出張という行為で、途中でどういうことがあろうともすべて出張ということにみなされているわけです。天皇は公的行為――植樹祭に参加をされるというのは、これはやはり宮城――皇居を出発されてからお帰りになるまでの一連の行為が植樹祭ということで公的行為、私どもはそう考えるわけで、途中で護国神社の鳥居をくぐって参拝をして鳥居を出るまでは、公的行為の間に私的行為がはさまっているんだというのは、これはちょっと私は通用しないと思うんですが。いま長官の言われたそういうことが、いろいろ天皇の行為がだんだん拡大をされていっている。公的行為ということの中で、本来は憲法上あるべきことではないことが、そういう行為の中でだんだん公然化していく、拡大をされていっている、そこに私は問題を感じているわけなんです。
 で、今度の元号の制定というのも、これもやはり、政府の資料を読むと、元号制定は国民統合の手段だというような意味のことが書いてある。やはり私は一連の背景というものを感じているわけなんです。まあこれ以上この問題は押し問答はいたしませんが、私どもはそういう問題意識をいま持っているという点を指摘をしておきたいと思うんです。
 宮内庁の方はもう結構ですからどうぞ。
 そこで、次の問題に移りますけれども、日本で太陽暦を採用した経過があるわけですが、この太陽暦を採用した、これは明治五年十一月九日、一八七二年十一月九日、こういうふうになっているわけですが、この太陽暦を採用するに当たって、旧暦による明治五年十二月三日を明治六年一月一日とする-この太陽暦の実施が始まっているわけですが、このときにどのような布告がされておりますか、これはわかりますか。


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ちなみに野田哲は旧社会党参議院議員

在日韓国人辛光洙(拉致実行犯)釈放の要望書署名議員


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で私が思うのは宮内庁はかなり嫌がっていたんではないかという事。

富田メモに関連して

親拝がなされなくなった事の理由として

漠然と三木総理の参拝問題が言われていますが

むしろ部落解放同盟と旧社会党が推進した反天皇(制)運動の苛烈さに

その一因を感じるのですがやはりどうしてもスルーされてしまう。


1975年7月の沖縄皇太子火炎瓶事件にしても

セクトの周辺には解同関係者の存在も指摘されていたし

同時期、部落解放運動は近世体制起源説に差別の原因を見出したと

反天皇(制)が大きな運動方針になっていたのですから

宮内庁への攻撃もすさまじい物であったわけです。

どうもこの辺りが

現代史の検証テーマから抜け落ちていると思うのです。


先日も書きましたが

同時期、旧社会党は部落解放同盟と共闘して反天皇(制)キャンペーン

を全国規模で行っています。

これについては旧社会党内でも反対意見が多数出て

党内がギクシャクしています。

しかしそこで圧倒的な政治力を持つ上田卓三氏らによって

社会党は急激に極左化していきます。

実際、解同はじめ国内過激派との連携は

この時期が最も強かったと思われます。


上田卓三氏については部落解放同盟委員長としての

活動もさることながら、

ティグレに見るように全国の自治体にも同和利権の

確立を実現し、水平社宣言にある被差別部落民こそ

誇りある民であることを体現していきます。


この運動実態は差別者個人をシステム的に糾弾し

有無を言わせぬ服従をその成果とします。


当時の公務員等はその苛烈な様から

ターゲットになる事を恐れていました。


元々「反天皇」という思想はコミンテルン日本支部である

共産党から部落解放運動に持ち込まれたものであるが

水平社思想がそのまま戦後運動に同化していくのは

1960年の綱領明文からでしょう。

それが運動のテーゼとして確立していくのは

1970年以降です。

それまでは現実的に機能しなかったと思います。


こういった側面からも富田メモを検証しなくては

実態などわかりようもないと思います。

ポイントは「宮内庁」そのものでしょう。




http://kokkai.ndl.go.jp/

で「上田卓三」で検索すると

その一部を垣間見る事ができます。

実際富田氏自身国会で質問を受けています。


91 - 衆 - 内閣委員会 - 3号
昭和55年02月21日


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護国神社に「爆発物置いた」 手投げ弾風の物回収(朝日)

↑なにやらきな臭い。


昭和天皇もマインドコントロールされていた? (産経)

だから横道それ過ぎ。