今回はなぜ聖書の神が占いや口寄せ、まじない、魔術や魔法の類を禁じたかについてお話ししたいと思います。
ここでは聖書や科学的根拠からではなく、私の実体験からのお話になります。
無神論者やスピ嫌い、目に見えない世界の事象を全く信じていない人でも、霊感がある人とない人がいる、なんていう世間話なら何となく小耳にはさむこともあるのではないでしょうか?
この霊感なんですが、実は私には全くありません(笑)
見事なくらいに霊感ゼロです。
墓地やトンネルへ肝試しに行っても「わっ!」といきなり驚かされない限り、ちっとも怖くありません。
怖くないからといって、近づいて良い場所と悪い場所くらいは分かりますが、とても残念でなりません。
まぁ、私のように何も感じない霊感ゼロの人間は、オカルトに傾倒し一生懸命研究したとしても実を結ぶことはありませんので、あまり心配いらないのです(私も挫折しました汗)。
これとは逆に霊感がちょっとでもあるとか、強いとかいう人は注意が必要です。
ただ、霊感があっても、見えるのが怖いとか、感じるのが気持ち悪いとか言っている程度ではまだ心配ありません。
その感覚をレーダーとして活用し、嫌なものからは逃げればいいのです。
厄介なのは、その自分の霊感を才能だと自覚して、コントロールできるレベルにまで訓練したり、生まれつき制御できる人はそれを職業にして自分や他人の人生に活用します。
この行為はかなり危険です。
この手の人達の占いや口寄せは本当に当たります。
魔術の類もプロセスがしっかりと確立されていればちゃんと発動します。
ただし、自分でコントロールできているつもりでも、絶対に制御できてはいません。
なぜなら、霊感が強い人がお伺いを立てている存在は、人間よりも遥かに高度な知恵と知識を持っていて、邪悪で狡猾な者たちだからです。
なぜ狡猾なのか?それは、人間にとってはまるで光の天使のような姿や声で近づき、さも人間の味方であるかのように接してきては、使役されているふりをするからです。
どれだけ霊感が強力な人間でも、かなりの修行を積んだ行者でも、この存在の本当の姿を見極めることは絶対にできません。
できていると思っている人は100%勘違いだと言い切れるので考え直してください。
結論ですが、この霊的存在の本性を人間が見破り、コントロールすることが絶対にできないから、聖書の神は占いや口寄せ、まじない、魔術や魔法の類を例外なく全て禁止したのです。
たとえそれが困っている他人を助けるために100%の良心から行ったことでも、犯罪行為をすれば法律を知らなくても逮捕されてしまう人間の世界と同じで、知らなかったでは済まなくなり、かなりのリスクがある行為であると言わざるを得ないでしょう。
悪魔崇拝の儀式でもしない限り、悪魔や悪霊が自分から「俺様は悪魔だぁ!」と名乗りを上げることはまずありません。デーモン閣下じゃあるまいし。
何度も言いますが彼らが人間に現れるときには、神々しい光の天使や威厳のあるハイヤーセルフ、可愛らしい妖精さんの姿で現れるに決まっています。
そして人間は「やっぱり自分は他とは違う力(使命)を持った特別な存在なのだ」と思いたいばっかりに、完全に信じきってしまうのです。
そりゃそうですよね、「本当に天使なのぉ?」とか最初から疑ってかかったら、せっかく自分に近づいてきた存在(チャンス)を逃してしまうかもしれません。
失礼なことを言ってさらにバチでも当てられた日には目も当てられませんから、絶対に疑ったりしないで、大切な自分だけの存在にしてしまうのです。
自分で自覚して悪魔崇拝や生贄の儀式を行なっている人間は論外ですが、魔法や魔術は小説や映画、マンガやアニメ等のエンターテイメントの世界では普通に登場して、日ごろから慣れ親しんでいる分、面白半分に手を出したりしていませんか?
私はこの点で本当に日本人で良かったなと思うことがあります。
魔法や魔術の「魔」という漢字をよくよく考えてみてください。
悪魔の「魔」です。この字は邪悪な者を現しています。
その「魔」が使うので魔法とか魔術という名前がついているのです。
白魔法とか黒魔法なんてものはありません。
そもそも人間が本来使ってはいけないものなのです。
私は昔、霊感のある人がとても羨ましいと思っていました。
しかし、今では霊感がなかったことが私にとっての恵みだったのだと信じています。
私は30年以上目の前に霞がかかった状態で生きてきました。
オカルトをやっている人間は第三の目の開眼を目指している人も多くいますが、逆にオカルトを捨て、全ての洗脳が解けること、これこそが本当の開眼です。
一度開眼してしまえば、人の世の出来事なら全てに答えを出すことができるようになります。
それは聖書という全てにおける基準が軸としてあるから可能になることです。
我々は蛇のように賢く、鳩のように素直でなければならないのです。