中国共産党機関紙「人民日報」の編集長や社長を歴任した胡績偉が先月、心臓病のため、96歳で亡くなった。彼が「人民日報」の編集長に就任したのは、毛沢東が死去して間もない1976年10月末のこと。江青(毛沢東の妻)らの極左グループ「四人組」を拘束して実権を握った華国鋒(当時、党主席)から、直接、就任を求められたのだった。(滋賀県立大学教授・荒井利明/フジサンケイビジネスアイ
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「四人組」が党の宣伝部門を握っていた1975年前後、庶民は「人民日報」について、「正しいのは題字と日付だけ」とひそかに酷評した。事実を尊重した信頼できる記事はひとつもない、という意味である。
胡績偉は1983年まで「人民日報」のトップにあったが、秦川や王若水といった改革に積極的な幹部とともに、そうした状況を一変させ、「人民日報」の黄金時代を築いた。
発行部数は空前の630万部にも達し、今では想像もできないことだが、庶民が党機関紙を熱心に読んでいたのである。権力を持つ党の指導者ではなく、権力を持たない庶民に顔を向けて、紙面作りをしたからだろう。
胡績偉によれば、改革派や民主派の人たちの論文を掲載するなど、大胆で自主的な紙面作りができた背景には、他人の話をよく聞き、むやみに批判することのなかった華国鋒の胡績偉に対する信頼があったという。
晩年の胡績偉は、1978年以降の改革・開放時代において、「ふたつの路線の闘いがあった」と折に触れて強調した。ひとつは独裁的な「トウ小平の道」であり、もうひとつはより改革的、より民主的な「胡耀邦・趙紫陽の道」である。
胡績偉は後者を支持し、「トウ小平の道」に反対した。1989年の天安門事件では、武力鎮圧に反対したため、全国人民代表大会常務委員を解任され、2年間の党内観察処分にもなった。
現実の中国は、胡耀邦や趙紫陽の失脚が物語っているように、トウ小平時代以降の江沢民時代、胡錦濤時代においても、「トウ小平の道」を歩んできた。それは、経済の発展と社会の安定を最優先し、政治面での改革を先送りする「道」だった。
来月の党大会で発足する習近平政権も、少なくとも当面は、「トウ小平の道」を歩もうとするだろう。だが、「トウ小平の道」によっては、深刻化している格差や腐敗を解決することはできず、「和諧(調和)社会」を築くこともできないだろう。習近平政権はいずれ、新たな「道」を模索せざるを得ない、と私は確信している。(敬称略)
http://sankei.jp.msn.com/world/news/121016/chn12101609000001-n1.htm