新宿御苑は探検隊カフェという狭い地下のカフェまでラウラウ・バングーラのライブを見に行った。
年末に友達の誘いで行った青山CAYでのライブにラウラウが出ていて太鼓のさばきがすごくかっこ良かったので行って見たのだ。

ラウラウよかったですね~。

そのカフェも怪しくて「探検隊」とかいうもんだからなんだろうと思えば
旅好きの方がやっているカフェで、旅先での出会いをその場だけで終わらせないで、旅から一緒に帰ってこられる場所を作りたい、という思って、それをカフェというかたちで実現したいうことだった。
なるほど、お客さんの大部分はあとから紹介され知ったのだが「探検隊員」ということで
一緒に旅した仲間たちがライブという名目で再会しており、おしゃべりの輪が出来ていた。

みんなが一緒に行ったモンゴルでの乗馬の様子や屋久島の緑茂った写真を見せてもらったりして
旅話を聞きかじった。

ふ~~~む、旅、ね。

ふむふむ、そういえば、わたしは気を遣ってしまうので大人数での旅は苦手であった。。。
まあ、話を聞く分にはいい。
情報も感じ方も違うし。
確かに仲間も増えるし。

そういう楽しみ方もあるんだなーー。

もっとも興味をひいたのが、ニュージーランドでトレッキングをやっているということ。

NLは天気が変りやすいので低山を歩きながらでも気象察知能力が養えるらしく
ガイドは気象をマスターすることがマストとのこと。
山でも同じなのでこれに参加したら面白いなと思った。


ああ、あとつながりとしては、最近、植村直己の『極北に駆ける』で犬そりのことを読んだが、
カナダよりのアラスカで犬ぞりのツアーなんかも展開しているとのこと。
わたしは犬ぞりに直接興味があるわけではないが、まあ文化としてつながっている世界なのかなーという感じがして、ああ、なんかつながってるなーという感じだった。

そのツアーの犬たちは植村さんが住んだエスキモーのひとたちの犬の扱い(完全に奴隷)と180度逆で、かなりかわいがって共存しているらしい。

植村さんの本を読んだ直後のわたしとしては、動物愛護系?と思って眉唾で聞いていたわけだが。
(グリーンランドのエスキモーたちは、犬にむち打ち、太りすぎるとは知らないと言ってえさは3日に一回、走らない犬を殺して食べる、という完全に利用するだけの相手であった)(40年前くらいの話だけど)

おわり











パリに着いて数日して、友人Mは言った。

「日本人ておしゃれだよね、パリのひとってみんな同じ格好してる。日本人はいろんな格好のひとがいるもん。」

わたしはそのときなんとなく違和感を覚えたけど、とくに反論しなかった。
その違和感を言語化できなかったし、Mがそう言いたくて言ったと感じたからあえて反論したくなかったのだ。

今日、会社からの帰り道になんとくそのときのことを思い出した。

違和感の原因がぼんやり浮かんできた。

(わたしは怒り系についてはいつもとっさに感情が来ない。そのときは何も思わなくてもあとから怒りが来たりして悔しい思いをしたりする。今回は怒りではないわけだが、なんかいやな感じがあった。)

* * 

ひとつに、日本人という言葉。海外にくるとマイノリティーになるがゆえにナショナリズムに陥る思考のわなについて。

ふたつに、おしゃれの定義はほかのひとと違う格好をすることではいない、というおしゃれについての価値観。

みっつに、日本人の「みんな違う格好」がおしゃれではなくコミュニティーを確認し合う制服的な感じがわたしには思えてしまうという、東京のおしゃれの感覚へのそもそもの違和感について。

最後に、Mが放っているなんだか卑屈なかんじがめんどうくさかったこと。

* *

ひとつめの「ナショナリズム」についてだが、わたしなりに思うところがある。

思春期、9年ほど海外で過ごしたため、実体験として国籍や容姿、文化の違いについて直面したことがあった。当時は、成長の過程でぶつかる新しい世界なのだとしか自分では思っていなかったが、今回、友人Mと同じ国に旅をして、それが大人でも直面することなのだなーと気づいた次第だ。

海外では、出会った現地人は何かというといちいちわたしに聞いてくる。
日本ではこういう風にするのか?日本ではみんなあなたのようなファッションなのか、日本人てあれこれあれこれ。

まるでわたしが日本の代表者のようになってしまう。
まるで大使だ。

わたしは日本で結構楽しい時間を過ごしてきたし、思い出がいっぱいある。
それなりに愛着があるのだと自覚する。
日本の悪口を言われると自分のことのように弁護したくなる。
日本のいいところをもっと伝えたくなる。

日本だったら水道水も飲めるし、きれいだし、コンビにがあっていつでも買い物できるし、春も夏も秋も冬もあってそれぞれ季節の過ごし方があって、海も山もあって、雨の語彙はフランス語にはかなわないくらいたくさんあって、、、ときりがないのだ。

「日本は」、「日本人は」、と知らないうちに「国」単位で自分のことを話すようになってしまう。
一方で、目の前のひとをひとくくりにして「フランス人は」なんて言ってしまう。

最初はそんな風に話しがちだ。

でもそのうち、なんだかそれってばかばかしい「くくり」だと思うようになる。
日本にだっていろんな地方があってそれぞれしきたりが違う。みんなそれぞれ違うと思っている。
そもそも、日本のなかにだっていろんな国籍や背景を持ったひとが共存している、ある意味多国籍人種だ。

「日本人」とかひとくくりに言ってるけど、なんかそれってそういう国内の多様性を無視した貧しい感覚だ、と気づくわけである。
「国」ということが多数あるうちのひとつの概念でしかないことに気づくわけである。

そうすると、相手に対しても「フランス人」とひとくくりにすることがはばかられるようになる。
そういえばフランス人でもいろいろいるな、と思うようになるのだ。

いやなやつもいるし、親切なひともいる。
貧しいのや高級なのや、いろんな肌のいろのひとがいる。
コミィにティーや宗教もいろいろある。

そんな風になってくると、「ナショナルズムなんてくそくらえ」という感じになってくるのだ。

国政とか外交とか、そもそも国を前提とした議論のときにはいいけれど
わたしはだから、日本人はとかフランス人はとかいう話は信用しないことにしている。

蛇足だが、持論があるので紹介する。
「(否定的に)○○って」という切り口で話をするとき、
「○○は」=「わたしのコンプレックスは」というふうに置き換えられると思っている。
結局、自分のなかにある以上の価値観とか見え方はできないから
「○○は」というときには無意識に自分のコンプレックスがでてくるのだ。

「(否定的に)日本人て」というときには、だいたい「わたしのコンプレックス」て、
と告白していると思ってきいている!


ときどき、海外で日本人形のような日本人をみかけることがある。
日本でも見かけない黒髪のおかっぱ。アジアや日本を強調したスタイルだ。
必ずしも似合っているわけではない。むしろ老けて見える。

かと思えば、完全に現地人のような風情のひともいる。
なんだかそれはそれでちょっと無理をしている感じで痛々しい。

わたしはこれらを見るたびに、自分のアイデンティティーをナショナリズムで解決した結果と理解する。
そしてなんだか安易に納得しようとしている様子に悲しい気持ちになるのだ。
果敢に外に出てきたのに、結局「国」という既成の枠組みを突破できなかった一種のあきらめを感じるのだ。

ひとは自分の属するコミュニティーを必要とするのだなーと、思う。
だからこそ、わたしはいろんなコミュニティーに多重に属していたい。

国家なんていう虚構のコミュニティーで自分を説明したくたい。

趣味とか仕事とか学校とか、国家以外のいろんなコミュニティーがある。

海外旅行に行くとき、その「国」に出会うことのほかに、自分が選んで属するコミュニティーがその国ではどう展開しているかを見に行くと、旅は俄然面白く深くなると思う。

(今回のわたしのそれは「登山」と「写真」だったわけです。)

(そのいち、について、次回はそのにから)

























受験パスしてしまった。
全然勉強してなかったから受験時間がみじめなものになることが目に見えすぎていて、敵前逃亡というには敵としての認識がなさすぎて戦う気すらないという状態だった。
旅に出たい。

そう、とても旅に出たいです。
行き先はーーーー

きれいな海があって、文化があって
観光地化されすぎてなくて
でもひとがいて
ちゃんとそこでやりたいことがあって


あれこれ考えてると
そこでも生活って東京とどうちがうのとか
と思い当たって

動けなくなる。

毎年一回海外には行きたくて
くすりだと思って。

やっぱいくと確実に違うんだよね

そもそも動くということ自体が自由。

ああ自由でいいんだった。自由だったんだった。ってさ思うじゃん。

それだけで旅に出ることの意味の半分。
あとはえんためだと言ってしまえるかも。


今年はパリに行くつもりだけど
知らない場所にもやはり行きたく。

行ったことがないとしらない場所。

台南の海でサーフィンとか?


連休どっかいきてーーーーーーーー


時間を食いつぶしながら
生きてることを実感して
そして仕事に戻ることが
いや。

でもとりあえずどっか行きたい。気持ちでいっぱい


東京では、放射能の空間線量は、結構高いです。
場所によっては0.8とか。
3.11前が0.02とかだったわけで、明らかに高いわけです。単位はマイクシーベルト。

わたしは、当日は東京都永田町にいて、3.12はそこで仕事で、3.13から「原発がマズい」と思い始めました。
3、14(月)は仕事で、正直外に出るのはやばいと思ったけどどうしても担当の工事を見る必要ががあったので室内だけど現場にいた。
ずっとワンセグでTVを見て様子をうかがってたけど。
友達から「関西へ逃げろ」と何回もメールが来た。
正直東日本は終わったと思っていた。
息するのが怖かった。
親にも連絡して逃げろといった。

変人扱いされました。
逃げるなら会社は辞めるしかないと思った。

あれから半年。

わたしはむしろ東北にボランティアで行ったりして
関東から離れるどころか
福島と通って東北に何日か滞在している。

あれから一度も関東を離れていない。

気持ちは変わらない。
関東から離れたい。
できれば海外に行きたい。

同時に、自分の生き方を考える。
簡単に避難を考えられる自分の覚悟のあまさ。
わたしは東京にいることにたいした必然性なんてない。

毎日の自分の生活がいかに意志にうらづけされていないか、
自分に失望した。

30代になって、人生をある程度有限だと思うことがあり
それでも、このサラリーマン生活に支えられて生きていて
まるで生かされているだけだと、

感じる。


そこへこの危機。


わたしは自分の生をだいぶ軽く感じてしまう。
一方で、とても自分を重く感じる。

ビョーキはいや、
苦しいのも
痛いのもいや。

手術も
惨めなのも
誰かにばかにされるのも

とってもいや。

みんなはどう思って生きてますか?


つまらない、サラリーマンになったよ。




でも、ちいさいときからの夢とか、あるじゃん。


わたしは、今、とても旅に出たい。
海を見たい。


旅に出たいよ。


行き先がわからいけど
いままでにないくらい旅に出ちゃいたいよ。





お客さんちの入居工事。オフィス風の部屋の使い方だったので、お客さん手配の什器屋さんとあいばんで、うちは電気設備工事を実施。
什器にはわすように配線したり、床の色のあうようなモールを使ったり、技術的というよりはお客さんの意に添うように細かいことを叶えてあげる感じだった。
住宅って、結局そういうお客さんの好みをどう見た目に落とし込むかってことがポイントになってくる。
施工の確実性とか安全性、清潔性は当然で、それをカバーしたうえでお客さんはあれこれ注文してくるから、それを先読みして叶えてなんぼって感じ。
想像力と気遣いとこみゅにケーション力。
お客さんにどう伝えるか、いろいろ。いいことも悪いことも、うちにとって損がなくお客さんにとっても損がなく、どこを完成形として目指すか、とらえるか。どこでよしとするか。

今日は下請け会社の頭のひとがちょっと怒って現場で「これじゃあお金にあいません、いつもこんな(軽微な)工事はしません。」といいやがった。
わたしは、現場では確かに細かい。お客さんに言われるよりさきにあれこれ気にして職人に注文つけてやらせる。
お客さんの家具にものを置くな、うるさい音を教養部にもらさないように玄関扉は閉めろ、時間が押してるんだから管理室にひとことわびをいれろ、ここはおさまりが汚いからやり直し、足りないから継ぎ足せ、だのだのだの。
わたしとしては当然なんだが。それで金が足りないと現場でいうなんて、見積書を書いたあんたの読みがあまかったんじゃないの、と思ってしまう。
結局全部ちゃんとやってくれたんでわたしは気持ちよく帰ってもらったんだけど、そこに相手の笑顔はなかった。。。
そうやっていわれるのはあたしに何か足りないのかなーー。

明日、現場監督のプロに会うので聞いてみよーー

わたし現場がやっぱり結構好きだな。
仕事がルーティーンからプロジェクト的になってきて、わたしがやるべきことが明確になり、それに対する批判や賛同があり、やりがいが少しだけでてきた。

友達のいいことを素直に喜べないなんだかがある。
友達が小説懸賞に応募し、入賞したらしい。わたしとそのこは絵本をいっしょにつくっていて、彼女の文才は認めているけど、なんでだか、素直に喜べない。多分嫉妬かな~、彼女がいい気になっているのがイライラするんだろう。彼女の文才はいいけど、彼女の乙女チックなところはわたしにはなくて、ないから面白いけど、賛同はできないわけです。

さらに、別の友達が転職の内定をもらったと報告を受けました。
優秀な友達が多くてわたしはうれしいし、すてきだと思う。
けど、これまた素直に喜べない。

わたし、なんでこんななんだ。。。

周囲を恨むというわけではなく、自分を恨むわけではなく、
そろそろみんな結果を出す時期なんだなと思う。
わたしは、仕事ではいままでぜんぜんパッとしないし、結果は大して出してないし、プライベートでも何か認められているわけではないし、
TV
スパイダーマン

映画館
食べて祈って恋をして
踊る大捜査線


なんか最近当たりがありませんなー
月曜日が祝日の水曜日はもうなんだか週末の気分である、サラリーマンとしては。
明日もあるからと、仕事をやり残したままで大学の友達に会う約束をした。
たまたま手にしたビール券をシャンパンに替えて、八百屋で野菜を買って、白いビニール袋にそれらを入れてゆっさゆっさと道を歩いた。暑くて汗が滴る。キッチンにどさっと置くと、すぐにビールの缶を開けて缶のまま乾杯をする。ぶよんと缶が跳ね返って、その勢いでビールを口にこぼす。
夏の実感。
ただ熱くて、ちょっと置いておくとすぐ全部空気の温度に同化する。
次にシャンパンを開けた。
野菜を刻んでおしゃべりをした。
わたしは単純に酔っぱらっていた。
彼氏と電話をして、彼女を駅まで送って帰ってきた。
目はとろとろである。
部屋は意外とすっきりしている。
彼氏と別れようかと迷っている
私は眠くなっている。
今夜は、環境省呼びかけのライトダウンキャンペーンで、オフィスは20時に消灯だというので、まあ帰る理由もできたかと帰ってきたわけです。
わたしはうちの植木の美しさを知っています。
帰りがけにハンバーグがとても食べたくなって、眠気が襲ってきている(週末にアルコールをたくさん飲んで体の機能がゆっくりで月曜日なのにまだ水分が体から出て行かず重たい感じだったのです)のにも関わらず、切った肉ではなくて、挽いた柔らかい肉が食べたいんと思って、塩も効きすぎていると疲れるし野菜の水分も欲しいしと思って、誰かが作ったのではなくて、自分で塩とか胡椒とかふりかけてやっとつくった、ハンバーグをもうイメージできてしまって、西口のピーコックにいったんです。
ビョークのデビュー曲がヘリの音にかき消される、本当にいきなり鈍い音が世の中の最大の音になって、あ、ビョークがまた聞こえる。
高校生のときに買った、まだよくわからないビョーク。今聴くととてもいい。今好きなひとに聴かせてあげたいと思う。そのときはただ退屈な音だった。
彼氏がいる。彼氏ができた。1月に。多分1月1日に。
よく知らないけど、きっとこのひとならわかるだろうに、という、生まれてまだ3回しか会ったことのないひとがいる。
彼氏にいま抱きしめてほしいな。
泣きたいとすれば、彼氏、あなたのために泣くな。
あなたがもっと近くにいればいい。
あなたを大事にしたいと思う。
花火を夜空に咲く花火を!一緒に見上げられればいいのに!!!!


どうして。

今日、会社のトイレのSUS引手を見るともなしに視界に入れながら、ことばを一番大事にできない世界にいるならもうこの世界にいる理由はないなっておもった。

生きててもあんまり面白くないなって。

とても些細なことです。

わたしが明日を楽しみにすることなんて、明日を生きる理由なんて、なんで大それたことのように自分の命や地球や、ただの偶然で意味もないのに。

生きていればいるだけ、どんどん、信じていたものは崩れています。

わたしがこうして自由に時間をもっているこの時間を捻出したのは、しているのは、ほかの命、過去も、同じ時間も、未来の誰かをも、巻き込んでここにある時間なんだと、とても思う。
ただ、思います。