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日中城と弓庄城は立山連峰から流れ出す白岩川が富山平野に出たあたりで、それぞれ左岸側と右岸側に構えている。

左岸側の日中城は天正十年(1582年)に弓庄城を攻めるために築いた付城で、川沿いの段丘の西端にあって弓庄城一帯を一望できる。

攻められることとなった弓庄城は川から少し西に登ったところにある。戦国時代中頃の永正年間(1504〜21年)に土肥政道が築き居城とした。越中畠山氏の麾下にいたようだが守護代の神保氏と椎名氏の争いに巻き込まれ、最後は佐々成政の攻勢に1年間耐えたが停戦・開城した。


台風7号が近づいてきて天気が下り坂とはなっていたが上市の最高気温が32℃という中、山城はもうお腹いっぱいだったので、車で乗りつけられるところを探していて見つけた日中城へ行くことにした。

ヘタレやんけ…😮‍💨

 

現在位置(Googleマップで) 

城の目の前まで来てみると、そこは完全な墓地だった…😨

盆休みということもあって、人の訪れもある…

それでも、墓地を囲むように空堀がめぐらされ、内側には土塁もあるようだ😮

 

南側の空堀

奥の方はヤブに埋もれているようだが、こちら側はちゃんと空堀なことが分かる😮

 

墓地の入口も空堀を渡る土橋になっていて、城郭っぽい雰囲気はちゃんと出ている。

ただの墓地をこんな空堀で囲って、土橋を渡らないと入れないようにはしないだろう。

 

土橋の横には立派な城址碑…

 

 

反対側に説明板

 

郭内は完全に人の墓地だし墓参中の人もいたので、写真はナシ…

 
いちばん奥まで入って、白岩川の向こうの方を眺める。
この城が対峙していた弓庄城は、写真右寄り奥の方。

 
今は田園地帯の広がる長閑な景色だが、佐々成政と土肥氏が対峙していたときの緊張感ったら…
 
白岩川を見下ろす。
 
西の方の土塁は、草ぼうぼうで木の枝とかも積まれてるか?
この外側が道路工事で削り取られたという。
 
反対側、先ほど外から眺めた空堀は、外側の茂みに半分ぐらい覆われているが、断面の曲線は分かる。
 
一通り見て回ったので撤収💨
 
城の下から見上げると、段丘の土壁をうまく取り込んだ様子が見えてくる。
こんな上に佐々勢の旗指物が林立しているさまを見た土肥勢の心中いかばかりか…
 
さて、日中城は首尾よく攻略したが、せっかく白岩川の対岸すぐ近くに弓庄城があるので、そちらにも行ってみる。
遺構はほとんど残っていないらしいが、何かが見えてくるかも…
 
川をわたって、弓の里歴史文化館の駐車場(Googleマップで)に車を停めた。
すぐ目の前の田んぼの畔が、弓形にカーブしている…
左の城内側が高くなっているが、これ城の名残り??
 
このすぐ隣に、だいぶ草臥れた感じの説明板が立っている…
「埋蔵文化財包蔵地」とあるぐらいで、城の遺構は破壊されず地中に残されている…のかな?
 
なお1980年から5年間かけて発掘調査が行われ、土木遺構や茶碗・鉄砲玉などが出土したとのこと。
出土品や城のジオラマなどが歴史文化館に展示されている。
 
本丸跡への入口に案内などは無いが、右手の田んぼの中に石碑などが見えるのが目印になるので、そちらへ入ってゆく。
本丸跡には、立派な石碑と黒御影石の説明板が立っている。
 
説明板が少し奥まっていて、段に登らないと読めないか…
 
本丸跡は往時のまま手を加えられずに残されているのだという。
真夏の今は🌿🌿の園だが、たしかに平場。
かなりの広さ。
 
そして、城の面影を一番残しているような感じなのが、白岩川の方に少し降りていったところの、この段。
本丸はここまでで、一段下がって白岩川沿いの平地につながっている。
今は青空だが、なぜか夜、篝火の焚かれる中で段の上に立って日中城の方を監視する兵士の姿が思い浮かんだ…
 
白岩川を挟んで対峙していた日中城と弓庄城をまとめて訪問したが、両方とも敵方のいる白岩川に面した側の壁が高くなっていて、互いに警戒していた様子が伝わってくる。
1年間にわたって攻め続けた佐々成政だったが弓庄城を落とすことができなかったという。最後は停戦したうえで土肥方は開城・退去したという。
けっきょくは土肥方のほうにより大きな犠牲を強いた対峙だったか…

 

★日中城

富山県中新川郡立山町日中

墓地入口周囲に数台分の駐車スペースあり。

丘城

★弓庄城

富山県中新川郡上市町舘

歴史文化館の駐車場が利用可。

平城

 

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(2024年2月17日 記)