俺は柔道をやっていた。

自分で言うのもなんだが、

高校のときに県で1・2番を争うほどの選手だった。

そんな俺だが、この春からは「普通の大学生」をしている。

もちろん、スポーツ推薦入試の話もあったのだが

その話は怪我を理由に断った。

そして、そこそこ勉強すれば入れる大学に入った。

周りのみんなは声をそろえて「もったいない」と言った。

でも、俺は柔道を続ける気にはなれなかった。

…本当に怪我はしたんだ。

でも、怖かったというのが本当の理由かもしれない。

結果だけしか必要とされない世界。

出た結果が、全てのことを決定する。

そう、今まで正しいと思っていたことすら、結果の前では無力なんだ。

俺は昔、後輩をいじめていた柔道部のエースを殴ったことがある。

そうしたら、監督から俺が殴られた。そして言われた。

「エースが怪我したらどうするんだ!」


その世界から、俺は逃げ出した。


そして今、俺は学生プロレスをしている。

もともと嫌いではないし、何よりプロレスだったら

柔道をやってた俺より強い奴はいないだろう、

そう思って学生プロレスを始めた。

でも、いざ始めてみて、少しガッカリした自分がいた。

相手を倒すために試合をしているはずなのに

なんでこんなに無駄な動きをするんだろう?

相手の技を、なんでわざと受けなくちゃいけないんだろう?

ロープに投げられたら、かえってくる練習、

相手が殴ってくるのを、逃げずに正面から受けきる練習。

一体、プロレスってなんなんだろう?

あまりにも、今まで俺が見てきた世界と違いすぎた。

俺は、プロレスをする気がなくなっていた。

幸い、俺は練習をしているだけで、まだデビューはしていない。

だから、今のうちにこのサークルを辞めようと思った。

そして、一番仲のよかった先輩にそのことを伝えた。

「お前が決めることだから、しょうがないな。

でも、プロレスもそんなに悪いもんじゃないよ」

先輩はなぜだか笑ってそう言った。

結局、一週間後の昼に行われる試合を最後に、

俺は学生プロレスを辞めることにした。


学生プロレスは、基本的に3年生を中心に展開している。

だから、メインイベントは3年生が務めることが多い。

この日もそうだった。

相談に乗ってくれた人のいい先輩と、

やたら筋トレが好きなマスクマンの先輩のシングルマッチ。

…どちらもいい先輩なんだけど、ハッキリ言って俺のほうが強い。

もし今試合をやっても負ける気が全くしない。

だからかどうかはわからないけど、

俺はなんだか馬鹿馬鹿しいような気持ちで

入場が終わってリング上に立っているこの人たちを見ていた。

――試合が始まる前までは。


俺は、魅了されていた。

彼らが織りなす芸術に、

と言えば少しくさいかもしれない。

でも、それはまるで芸術だった。

普段、練習でやっている動きで、観客をひきつけ、

普段、練習でやっている動きで、見ている観客が沸く。

そして、マスクマン先輩の攻撃で流血しても

立ち上がる先輩の姿を見たとき、

俺は、不覚にも、興奮していた。


そうか。プロレスには、これがあったんだ。

確かに試合をすれば俺は勝てるかもしれない。

でも、俺は、彼らと同じ事はできない。

観客を今の俺と同じように興奮させることはできない。

俺には、芸術作品は作れない。


いつか先輩が俺に言っていた。

「観客にとって、お前が本当に強いかどうかはどうでもいいことなんだよ。

それよりも、お前が『どのように強いのか』を、リング上で『どのように見せるか』

そのほうが観客にとって重要なんだ」

それを聞いたときには、何言っているのかわからなかった。

俺がその言葉を思い出した瞬間、

リング上では先輩は空中を舞っていた。

キレイだな。単純に、そう思った。


試合後、控え室で倒れたままの先輩は

それでも笑いながら俺にこう言った。

「プロレス、悪いもんじゃないだろ?」

俺は先輩に頭を下げ、思っていることを素直に言った。

「俺も、そう思います」


もう逃げたくない。

ここで戦おう。

そして俺は、先輩と一緒に、なぜか笑った。

強くなりたい。

リング上で強くなりたい。

本気で、そう思った。