神奈川県厚木市にあるいとこの家だ。叔父宅が新築したと言うので、その祝いも兼ねての訪問だった。
TVモニターがある夢のようなバスルームで、湯船に浸かり、新春隠し芸大会を観た。
その頃はお笑いもジャニーズアイドルもまさに全盛期。同い年のいとこはTOKIOやV6 KinKi Kidsなどに夢中だった。
父も兄もいて、おそらくこれが記憶に残る最後の4人での家族旅行だったような気がする。
相変わらず私は自動車教習所に通っており、大学への進学も決まり、浮かれた気持ちでいたと思う。
しかしどんどん昔のロックにのめり込んでいき、現代の音楽は全く聞かず、文化にも触れず、狭い価値観での詩でオリジナルのデモ曲を仕上げ、自画自賛し満足をしていた。
今聴いてもきっと、それなりに光るものを持ってるような気がするが…まぁ、10代最後の青クサイ内容だった。
高校のクラスの様子はどうだったかと言うと、もともとそんなにまとまった雰囲気ではなかったから、上カーストの奴らがちょっとしんみりとしていた位だった。
私も含め大多数のモブはみんな未来を見ていた。
「こんなもんか。青春の終わりは」
軽音部の連中とも、特に校内ライブ企画などをするでもなく、別れて寂しくなるなぁといった実感はなかった。
しかし私と渡辺、川西はなにかと結束し、クリスマスやバレンタインなどでは3人で宅飲みなどをした。
音楽的にパッションが近かったのは、付き合いの度合いで、ギターの渡辺と言うことになる。
私が夢を託し、立ち上げた「GYPSY」とはまた別で、「まぁこいつとはいずれ何かバンドはやりたい」という気持ちも、芽生えてはいた。
色々と準備期間が整ったと思ったが、どんどん欲求欲望というものが出てくるものだ。
英語の勉学の道に進むのだからちょっと洋楽の歌詞の翻訳をしてみようとか、
バイト代で服でも買おうかな、など。
そういう事は興味だけで終わり、長続きはせず、やってもあまりしっくりこなかった。
ジーンズ・メイトやユニクロのファッションで充分だと思ったし、英語の勉強も正直だるかった。
自分が表現したいものはやっぱり特に16歳の頃の苦しい気持ちだったし、オリジナル作品は日本語で、というものがあった。
時折受験英語を取り入れたが、廣田に文法を訂正されることもよくあった。
運転免許は年明け2月には取れた。
本試験も一発合格。無論100点だ。
記念に会場に隣接してる献血センターで血を200cc採った。
そして私はその勢いで、今は亡き祖父になんと、「中古車をねだる」。。
私は確実にそれが叶うという確信があった。
3年前に兄が大学受験合格した際、祖父は30万円ほど、祝い金として送ったこと。
私はそこを付け込み、たじろぐ祖父や両親に「兄ばかりズルい。不平等だ」と、幼児の如く悪態をつき、同額の30万円もの大金を高齢者からゆすろうと、たかったのだ。
熱意と屁理屈で
強引に。
しかし私は祖父からみて、おそらく孫の中で1番、祖父に対し優しく行動してきた自信と自覚があった。
軍人として大酒飲みとして豪快な祖父であったが、胃を半分以上切除しているような障害があり、就寝前は腹を摩らないとガスが溜まり苦しくなるという日常であった。
普段は祖母が行うのだが、親戚が集まる長期休みに入ると、祖父はスキンシップも含め、孫の私たちにお願いする。
とくに兄はイヤイヤやっていた。
やっても5分。
私は「たまの、年に数日しか一緒にいないんだからさ、もっとやってやれよ…」
と思ったし、祖父も、そして秋田の美味い飯を作ってくれる祖母のためにも、私は一緒にいる間は毎日30分は祖父の腹を摩った。
屁が出ると、終了。
私も祖父も大喜びだ。
祖父の隣で寝るのも兄は嫌がっていた。
昔から兄が優遇されることに対して、意味が分からなかったし怒りの感情もあった。
兄が祖父の葬式で孫代表の言葉を揚々と述べたり、
自分の結婚式では祖母を壇上に上げた時は、複雑な気持ちになった。
私からみて、ハッキリいって善人アピールでしかなかった。
「お前…そんなに祖父母に優しく接してたか?」
大人になってからの兄のこれらの行為に
正直、虫唾が走った。。
祖父が酔うと疲労するビブラートが効きまくったハープのメロディ。
聞いてあげる気もなかったくせに…
テメェは親戚が集まると、ここぞとサックスを吹き始める。
同じ事してるじゃないか。。
じいちゃんはハープを聞いて欲しかったんだよ、あの時の俺たちに。
聞いてくれなかった時の寂しさ、お前に分かるか?
あんたを一度でもボーカルにしてロックやらせたの、大失敗だったよ。
もう、呼称統一できてないし、こんなこと言いたくないよ、俺だって!
…あぁ、祖父は兄弟喧嘩だけはいつもするなと言っていたね。
もう、やめるよ。
じいちゃん、あの時もごめんなさい。
あのとき、これくらいワガママ言っても良かったよね?
…以上の理由もあり30万祝い金授受については、父も兄も黙ってしまっていた。
私にも罪悪感はあまり無かった。
ペーパードライバーになるよりは中古でも買って慣れておくのは良いし、もちろんバンド活動のためと、とにかく燃えていた。
あとは、やはりモテたいというのがあったことは否めない。
髪を伸ばし車で大学に通い、ロックして、それで英語もしゃべれたら…最強じゃん!と。
闇の高校3年間もこのためにあったのかと思うと、私は人生の絶頂に来たような気分だった。
高校の卒業式は…本当にくだらないものだった。
くだらない時代だったから仕方なかった。
ダラダラと、髪の毛をスプレーで不自然に黒くして、ふてくされたポーズ。
かと思えば、イキがって卒業生代表の言葉でほろっとさせるようなギャップ演出をしてるやつとか…
春なのに寒気がした。
やっと高校卒業、大学進学、そして自動車運転免許も手に入れ、ドラムもある程度叩けてオリジナル曲も夢も持って、、
後は結局
彼女とか名誉とか、手に入れられなかった青春…そういう「普通」なものを手に入れたかったんだ。
しかしこの高校での3年間という月日は、私の生き方を「普通」へと矯正させるには長過ぎた。
もう変えられない
この暗く、惨めな、悶々としていた過去という時間。
どうにか光が当たり、報われ、清々しく迎える未来になるように
今も戦っている。
だから
昨今の世界情勢、自然疫学、政治経済、芸能文化…
時を経てメッキが剥がれ、ハリボテが崩れ、悪が懲されることは至極当然の現象と見なすことができる。
これにて。
この、私の18章にも及ぶ高校生活を振り返っては、当時の心境を呼び起こし吐露し、活字に起こしたことは、現在を見直すきっかけにもなれた。
記憶を掘り返す…かなりのエネルギーを費やした作業であったが、その価値は充分あった。
新たな活力が生まれた。
未来を案ずるよりも
過去から生むが易し
〜次章からは
ユニバーシティ編に突入するとする。
これまた高校の時と同等、私の人生において重要である期間なのだ…
また、胸がえぐられる作業をし、過去をしっかりと踏み締め、未来を生きたい。