私は作ってしまった作品に対して冷たいところがある。私の好奇心は、頭に浮かんだイメージを目の前に形として表して、やはり私の中に本当に在ったな。と確認すると満足してしまう。さらにほとんどが作品の被写体として作るので、撮影してイメージを確保した時点でもう役目は終わった、という気分になってしまうのである。それを増長しているのは、最近、写る部分しか作らなくなっていることであろう。前々回書いたように、背景に合わせて撮影用に造形するためと、かけられる時間に制限がある場合、その時間の多くを限界まで頭部の制作にかけるせいである。私からすると身体は頭部のために。その表情を生かすために作る物である。 先月のことであるが、玄関の下駄箱(最近はおそらくそう呼ばないだろう)は扉を外し、自転車用のスパナやその他の道具箱に近い状態になっているのだが、そこからある人物の頭部がでてきた。撮影の多くは屋上で外光をやその反射光を使っておこなうが、撮影を終え、玄関に引き上げて来た時には、すでに画を作ることに頭がいってしまっており、使い道のない胴体から首を引き抜き、ついそこに置いてしまって、すでに出来上がり、主役を待つばかりの背景データの入ったパソコンの前にとっとと座ったのであろう。以前オークションで落札したギターが届いた時、その惨憺たる状態を見て、私が今までないがしろにしてきたギターが化けて出て来たかのように思ったことを書いたが、下駄箱から出て来た首を見た時も、ちょっとそれに近い気分になった。七月頃に展示の企画があるのだが、その際、すべて生き返らせて展示したらどうだろう、と思ったのはその時である。予定と違ってしまうし、そもそもすべて作ることが可能かどうかさえ判らないのだが。 いつかやろうと思いながら実現していないことに、ビートルズのサージャントペパーズのジャケットのように、今まで制作した作品を、同一画面に配することである。そう簡単にいかないのは、それぞれの作品の撮影時の光線状態がまちまちだからである。それではただ合成しても同じ場所にいるようには見えない。それを実現するには、すべて完成させた時点で、それぞれ同じ条件で撮影してしまうことであろう。その際、作者の私がその人達にかこまれてにやけよう、などという了見はまったくない。

過去の雑記

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