三島由紀夫の命日である。生誕だ没年だ、とほとんど興味がないが、この時の背景の撮影はあまりに有名な場面だけに、光の方向が違っていたりすると面白くない。25日にできるだけ近く、時刻もできるだけ近い時間に撮影している。 70年頃といえば、アジ演説は拡声器を使うものというイメージがあったが、子供心に拡声器なしでは聴こえないじゃないか、と思った。持ち込むのが無理だったのであろうか。それでも“肝腎”の日本刀『関の孫六』はどうどうと持ち込んでいる。 今思うと、聴こえようが聴こえまいが三島にはどうでも良かったのであろう。むしろ怒号にかき消されることを想定していたであろう。あの場面は必死の説得に応じない自衛隊。「もはやこれまで」。ときびすを返して長官室に戻り割腹。というシナリオだったはずで、仮にあそこで「三島先生私も」などという隊員が現れてしまったら、三島の想定したであろう名場面が台無しになってしまう。それは絶対に困る。あそこでは怒号を浴びせられなければいけなかったはずであり、空気を読めない隊員が現れなかったことは幸いであった。 あそこでそんな隊員が現れてしまったら、どうするつもりだったのか三島に訊いてみたい気がするが、当然、三島のことであるからそんな“万が一”にもそなえていたことは間違いない。

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