新年早々ではありますが、こんな本を一気読みしました。
私が、ひきこもりの担当部署を拝命することになってまず最初に読んだ本が、この筆者による「ルポひきこもり未満ーレールから外れた人たちー」でした。
これを読んで、「大変なことになった」と思ったものです。当事者たちの、自分以外の世界のすべてへの不信感がいずれの事例も強烈で、彼らの信頼を回復することなどできるんだろうか、という大変さです。
昨年(もう昨年になりましたね…)は、ひきこもりという単語が今までになく飛び交った年でした。今年も含め、まだしばらくは、というか、今後ますます見ることになっていくのでしょう。そうした年末に、ずっとひきこもりの人々を追い続け、ご自身もNPO法人KHJ全国ひきこもり家族会連合会の広報担当理事を務めておられるジャーナリストの池上正樹氏の、昨年の集大成のような本でした。
特に8050問題的側面の強い、高齢層のひきこもりにつき、筆者の主張及び私が本書から感じたことを大きくまとめると、下記の3つの「なさすぎる」があげられます。
- 法的根拠がなさすぎる
- 当事者らの社会内の「居場所」がなさすぎる
- 憲法感覚がなさすぎる
1 法的根拠がなさすぎる
「ひきこもり支援法」のような、「ひきこもり」の単語が入った法律を聞いたことがないことからもわかる通り、ひきこもりを支援するにあたって明確な根拠となる法律は現在のところありません。このため、特に行政機関が相談支援をする際の「たらいまわし」の原因となっている様子が、本書には随所にあげられています。
明確な法律がないとはいえ、ひきこもりは、いきづらさの結果顕在化する「状態」なのですから、そのいきづらさの原因を分析すればまったく根拠がない、という事態は実は言われているほど多くはないと思われるのです。ご本人の状態を丁寧に聴取すれば、何らかの精神疾患が疑われる場合は少なくありません。その場合は、保健所が中心となり、精神科医療へつなげる支援が可能です。また、ご本人が高齢のご家族に対し、暴言であったり暴行であったり、何らかの権利侵害行為を継続的に行っているのであれば、高齢者虐待の認定をしたうえで、その「養護者支援」として高齢者の部署や地域包括支援センター職員が関わる必要があるはずです。この場合、ご本人の年齢は関係ありませんので、「65歳じゃないのでお話は聞けません」の抗弁は立ちませんので、65歳未満でもつなぐべき先までつなぐ必要があります。
ちなみに、「暴行はありますが、物にあたっているだけなので虐待ではありません。」というお話をよく見かけます。たしかに、高齢者自身にけがが生じていない場合、身体的虐待と認定しづらい面は否定できません。しかし、たとえ物にあたる行為であっても、その行為態様や頻度によっては、心理的虐待に該当する可能性は十分にありますので、「人に向かった暴力ではない」というだけで虐待から外すのは早計であるように思います。
とはいえ、明確な法的根拠に乏しい場面があることは否定できません。大きく分けて、「平時の相談支援の根拠」と「緊急介入の根拠」に分けられると思われます。
まず、平時の相談支援の根拠については、現在厚生労働省で、地域共生社会推進検討会でずっと検討がされています。これを見ていると、そのうち社会福祉法で設計するのか、どうなのか、というところです。
ここで、あえて「ひきこもり」を看板に掲げた立法が必要なのかどうなのか、と考えると、そう単純でもないような気がします。
まず、平時の相談支援の根拠ですが、たしかに現在は特に年齢で切られてしまって残念な結果に陥ることが多かったでしょう。ただ、同様に、制度の谷間的扱いで窓口で残念な思いをする論点はひきこもりだけではありません。難病も、正直なところ、私自身が患者としての経験の中で、あまりパンチの利いた相談支援をしてもらった経験がありません。同様に、高次脳機能障害だったり、若年性認知症だったり、こうしたテーマについても、それぞれに立法すべきではないかという声を聞くことがあります。ただ、テーマごとに法律を乱立させることで、かえって「関心の谷間」を生んだり、彼岸と此岸を分けるような事態が生じてしまい、逆に理解促進から逆行する結果も招きかねない、という懸念があります。発達障害を見ていると、そんな気がしてしまいます。
また、緊急介入の根拠についても、どのような場面で、どのような根拠が必要であるか、慎重に検討する必要があります。本書では、法的根拠さえあれば、支援拒絶の意思が固いご家庭でも何かできることがあったのではないか、という問題意識を強く感じます。しかし、ご本人らから明示された意思は、よほどのことがない限りは尊重しなければなりません。それが、憲法上保障された自己決定権です。また、矯正介入を許せば、その場は収まったとしても、おそらくご本人やそのご家族と行政機関との信頼関係は不可逆的に崩れてしまうおそれがあります。そのため、ご本人の意思に反して、公権力が介入できる場面は、相当に絞り込む必要があります。
介入を検討すべき場面の一つの基準が、「生命への危険」でしょう。支援への拒否的な態度により、親や本人に生命の危険がせまる、いわゆる強固な自己放任(セルフネグレクト)状態を認めた場合に、119番相当になる手前で介入できるようにできるといいのかもしれません。
現時点で、生命の危険が生じた際に明確に介入の根拠を与えている法律が、児童・障害者・高齢者の虐待防止法をはじめとする法律です。しかし、これらは、本人が「児童(18歳未満)」「障害者(確定診断つき)」「高齢者(65歳以上)」でなければ発動しません。また、健康な成人を対象とした同旨の法律として、DV防止法があります。しかし、これも「(事実婚を含む)配偶者」であることが前提です。
…だめです。65歳未満のひきこもりご本人が生命の危機に瀕していても、介入する根拠がないわ。
このように、「いずれも高齢者に至らない年齢の成人間における家庭内虐待行為」については対応できる法律がありません。比較的若年で、かつ暴力や経済的搾取を伴うひきこもりの場合、親が65歳に満たないために適用できません。他方、ひきこもり以外にも、中には児童虐待に近い親子関係を引きずったままこどもが成人してしまうようなケースもありますが、その場合も、対応できる法律がありません。
上記のような事情から、ひきこもりの緊急時支援の根拠としては、
① 「家庭内虐待防止法」のようなものの立法化
② 「虐待」の中に、自己放任(セルフネグレクト)ケースを明確に含める
の2点があるといいんでしょうね。そんなこと言ってる人、聞いたことないけどね!
・・・派手に長くなってきたので、ここでいったん切ります。
2 居場所がなさすぎる
これは、ひきこもりの人が家から一歩社会へ出ようとしたとき、家族以外の人といきなり円滑にコミュニケーションをとって、人間関係をつなぐということが難しいため、社会参加へのリハビリ支援の一歩として、地域の中に安心して過ごせる「居場所」が必要ではないか、というものです。
たしかに必要なのですが、それを言い出すと、難病なんか本当に当事者が一人二人で運営しているような小さい「難病カフェ」に頼らざるを得ないところがあるので… 難病当事者からみると、ひきこもりの方がだいぶ「居場所」研究は進んでいるように見えるのです。
ともあれ、これも地域共生社会推進検討会の議論を経て、既存の法律(介護保険法、障害者総合支援法、生活困窮者自立支援法)の中での「居場所」に関する事業を組合わせ、ひきこもりを含む社会参加困難な人の居場所を創設する新たな事業を始めようとしているようです。
ただ、これも「居場所」といってもそのフェーズは一つではないように思います。これまで、地域での「居場所」の理想形として想定されてきたものは、高齢、障害、障害者、こどもなど、多様な人が集う地域のサロンです。ところが、ひきこもりの人々が必要とする「居場所」は、そうした多様性ある場への「貢献」としての参加を希望する場合もあれば、どちらかというと自助グループ的機能を期待している場合もあります。この点、参加対象者をどのようなニーズのある人に設定するか、そこは主催者が慎重に見極め、発信する必要があるでしょう。また、「居場所」の議論をする際も、いずれの性格の居場所の議論をしているか、ひきこもりの人々の繊細なニーズをうまく吸収できるような、慎重な議論が必要です。
3 憲法感覚がなさすぎる
ひきこもりの人々の相談を聞いていると、弁護士の立場からはびっくりするようなことを言われることがあります。たとえば、「扶養義務(民法877条)」について、民法には直系血族と兄弟姉妹には原則として扶養義務がある、と書かれているため、親は死ぬまでこどもと同居し、面倒を見続けることを義務と考えていたりします。同じ事が兄弟姉妹でもあり、もし同居している親に何かあった場合、兄弟姉妹である自分が、ひきこもっている本人を、親が今までしてきたのと同様に面倒を見なければならないのではないか、と考えている人もいます。
一般的には、生活保護を利用する際に、直系血族と兄弟姉妹への扶養照会の是非をめぐって説明されることが多い扶養義務ですが、これは、扶養義務のある者が、自分の社会的地位や収入に相応した生活を送ったうえでなお余力がある範囲で生活に困窮した親族を経済的に支援する義務」をいいます。
まず、「ご自身がきちんと収入や社会的地位に相応した生活を送れていること」が前提となりますので、その生活を崩してまで何かを求められる義務ではありません。
次に、支援する内容は経済的なものが大前提であり、同居したり、家事・買い物その他の事実行為をすることまでは、扶養義務には原則として含まれません。
…という点はよく聞くのですが、本書ではさらにびっくりするエピソードが出てきます。「勤労の義務」がひきこもらざるをえない遠因となっている、という話です。
「働かざる者食うべからず」の誤用(働いていない者は食事にありついてはならない、という発想)から、せっかく趣味の集まりなどに出かけて行っても、「現在働いていない状況」のために話題に窮することもないはずだ、働いていないことでそうした集まりにも行けないし、相談でも責められているような気がして行けないし、就労がメインの相談支援をされても話が合わない。だから、勤労の義務がひきこもりを生んでいる、というものです。
そういえば、中学校の公民の時間、「日本国憲法は、国民の三大義務を定めている。それは「教育(を受けさせる義務)」「勤労」「納税」の三つだ」と必ず教わります。しかし、よく考えたら大学の憲法の授業で、この三大義務はほとんど紹介されません。司法試験でも絶対に問われません。大学で、憲法学の教育を受けていれば、「憲法が国民に何らかの義務を課す法典ではない」ということは体に叩き込まれます。しかし、ここをスルーすると中学校の公民の知識のままで日本国憲法の理解は止まってしまいます。その結果、「教育」「勤労」「納税」は、何が何でも全国民が守らなければならない義務なのだ、と誤解してしまう国民が大量に発生してしまうのでしょう。
しかし、憲法のどの教科書を読んでも、「義務」について触れている個所はごくわずかで、いずれも「憲法上の国民の義務を定める規定には、格別の意義は見出しがたい」だの、「注意的に規定したものにとどまる」だの、そういったことしか書かれていません。このため、ひきこもりをはじめとする社会参加支援で、いの一番に就労を挙げてしまう風潮は、憲法上の要請ではまったくないのです。
昨年、たしかに、年末にかけて就職氷河期世代の就労支援に、国が本格的に乗り出すという報道が相次ぎました。その際、「当事者の意見を聞きながら」ということで、NPO法人KHJ全国ひきこもり家族会連合会もヒアリングを受けていました。しかし、ひきこもりの多様な状態のうち、「働き口さえあればすぐに正社員就労が可能」という状態にある人が果たしてどれだけいるでしょうか。いずれも、社会への信頼をなくし、自分の身は自分一人で守らなければならないという不安に縛られた状態にある人が多い中、就職氷河期世代とひきこもり支援は、思っているほど重複しないのではないか、という感覚です。
ひきこもりの人に勤労の義務を言う前に、自己決定権や個人としての尊重(13条)、生存権(25条1項)を先に十分に保障することが、憲法上の要請です。