病気観のパラダイムシフト | ハリーの養生訓

ハリーの養生訓

僕が見つけた養生

病に苦しんだ人間だからこそ、病に苦しむ人、苦しみから逃れたい人の気持ちが痛いほど分かるのです。

「病気に感謝しなさい」理屈ではわかっていても、なかなかできるものではありません。

何度自分の身体に怒り、神仏をなじったかしれません。

だからこそ、病める人の代わりに、その人の身体に、そして病気に、「ありがとう」「ごめんなさい」と手を当てることから始めたいのです。

僕が当初治療家として身を立てた時は、それまで大きな病気をすることもなかったので、職業的、技術的なものと割り切っていたと思います。

しかし、治療家となってから大病を経験し、「病気とは何か」「治るとは何か」真剣に考えました。

かねてから私淑していたヨガの沖正弘先生も長年がんや結核におかされ、克服していました。

先生のヨガ道場には、様々な人が訪れたといいます。

中気、リウマチ、肋膜炎、カリエス、喘息、糖尿病、てんかん、神経痛、痔ろう、胃潰瘍、中耳炎、蓄膿、そこひ等々

そうした人たちに沖先生はこのように言ったといいます。

『僕は人間治しをやるので、病気治しではない。病名は不要だ。ここでは一切病気の事を言うな。皆難病だというから面白いからやってみるのだ。皆一つの生命の兄弟が苦しんでいるのは僕にとって見るに耐えないことだ。この会は病気治しの会ではない。生活治し人間治しの会である。病気はまちがった生活の産物である。生活を正せば病気は消えてしまうのである。今日から正しい人間の生き方の研究に入る。僕も真剣にやるから、君達もやれ、僕に治す力はない。手伝うだけだ。治す力は君達自身の中にあるのだ』

もはや歩けず、タンカやリヤカーで担ぎ込まれる人、大病院を渡り歩いて、最後の望みですがりつく人。

病気を治してもらえると思っていた人は面食らったに違いありません。

語気は強いですが、差別に苦しむらい病患者の膿を口で吸いだし、皆が敬遠する精神病患者を、常人として扱うことが大切なのだと寝食を共にしていた、沖先生の深い愛情が裏打ちした言葉であり、人々の心が変わるのにそう時間はかからなかったと思います。

『心身改造の近道は思い方を変える事と断食と体操だ』

「病気治しではない」の真意は「食べ方」「体の使い方」「心の使い方」この3つに集約されているでしょう。

病気を単に悪者扱いし排除すれば良いとするのではなく、病気を通して、自分を見つめなおし、病気を活用して、自分をより成長させること。

「ヒーリングワイズ」という本にはこうありました。

『もし、痛みや障害を治療する際に、宇宙に栄養を与えたり、地球を癒したり、地域社会を創造したり、家族を強化しなかったら、ワイズウーマン的思考法では、たとえ患者がよくなったとしても、まったく何も癒していないことになります。もしその人を癒したとしても、家族や地域社会や地球を破壊するなら、全体性が増すことはなく、栄養は機能せず、健康にはならず、神聖さは忘れ去られていることになります。』