物言わぬは腹ふくるるわざなり | ハリーの養生訓

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ヨガや体操、マッサージ、サプリメントや健康食品、いろいろやっているのに、どうも効果が表れないということがあります。

軽重問わず、あらゆる疾患に言えることですが、それが単純な原因であることはまれで、社会的な病理も含めて、いつでも複雑な疾病構造を内包しているので、単独の方法で鮮やかに効果を出すということは少ないのです。

しかしながら、適時、必要な刺激が与えられる、心身にとって有益な取り組みを継続して行っていれば、少なからず好転していってもいいはずなのです。

こんな経験があります。

あるゲストの腹部を掌圧(てのひらを使って温めるようにおさえること)しているとき、泣き出し、抑え込んでいた感情が溢れ出てきたことがあります。

感情やストレスが腹部のコリとなっているのです。

そのコリを慰めるようにおさえたところ、解放されたということなのでしょう。

そのゲストは、ほどなく落ち着きを取り戻し、終わるころにはすっきりとした表情をしていました。

「物言わぬは腹ふくるるわざなり」の言葉の通り、むやみに感情を抑圧するのはあまり体に良くないのでしょう。

かといって、人の心に土足で立ち入るような、直接的な介入も、本人にとって無意識的であれば、反発こそすれ、あまり効果を見込めなかったでしょう。

そこで伝統的な身心一如の、物言わぬ手当てが改めて見直されるのです。

江戸時代の古方派の書物『六診提要』には、「およそ腹を按じて腹部柔らかにして力あって塊物なく動悸なし、これを無病の人となす。病人に在りても治し易し」とあります。

同じく古方派にして漢方の革命家との呼び声も高い吉益東洞は、「腹ハ生アルノ本ナリ。故に百病ハココニ根ザス」と言いました。

つまり、あらゆる方法をもってして、最終的に腹部に程よい弾力が出てくることを指標にすればいいわけです。

呼吸法でも指圧でも、うまくやると腹部が変わります。

体操でも、中心である腹部の弾力を取り戻すための、上肢あるいは下肢に動きや伸びをつけていくような、連動性を配慮した、有機的、大局的な観点からなされるものでなければならないでしょう。

その反対に、上腕二頭筋を伸ばす、鍛えるというような、単独の筋に限局した、西洋的なストレッチ、ウェイトトレーニングの概念は、全体性を欠いた部分的なもので、有機的に連動する全身のバランスを失いかねないということができます。

指圧の大家、増永静人は『「腹をみせる」という言葉は、「相手を絶対に信頼する」という意味があり、医療においてもこれが容易に行われた。また、日本の医師はその信頼に応えて「診せていただく」という謙虚な態度で患者を遇したのである。それだけに「腹を探って、悪い所を見つけ出そう」という、いつも疑いや好奇心に立つ診察法を腹部に対して行うことは危険を伴うことになる。いくら親切心からであっても、相手の隠したい欠点を暴いて明るみに出し、「ここが悪い」と指摘されれば、決して良い気持ちがするものではない。腹のシコリは心のシコリでもあるから、ジッとここに手を当てて患者自らが結ばれた心をゆるめ、これを解く。そこに病を癒すコツがあると思う』と述べています。

本来は、人によって施されること、つまりお互いに癒しあうことが理想的でしょう。

単独で行う自己指圧のような方法もありますが、円満な人間関係を基礎と考えれば、それはあくまでも副次的なものとしたいところです。

その認識の上で、セルフケアの方法を行いましょう。

腹部を、なでる、さする、おす、もむ、気持ちの良い方法を選んで行えばよいでしょう。

コリをほぐそうと力まないことも大切です。

こだわりというコリをほぐすのに、コリにこだわるような思いではいけないということです。

もう少し深く腹の底にまで圧を浸透させたい場合には、中上級者向けとなりますが、テニスボールやソフトボールをうつぶせの腹部にかませて、体重をかける方法があります。

ただもたれるだけなので、硬い・やわらかいといった触覚による分析的な判断(判別性感覚)、ほぐさなければならないといった作為的な思いが介入しづらく、手の疲れもなく、呼吸に専念できる分、深いリラクゼーションが得られます。

注意したいのは、動脈硬化が進んでいる場合、腹部への強い圧迫は大動脈解離の恐れがあるので、軽いタッチにとどめるべきでしょう。