両親が墓を建てるというのを聞いて、改めて「先祖供養」について考えるようになりました。
供養とはそもそも何なのか。
各宗派で、様々な儀礼、様式があるようです。
確たる信仰を持たれている方は、迷いなく行えることでしょう。
しかし、特定の信仰を持たない者にとって、供養として、何をすればいいのか、迷うところです。
死んだこともなければ、先祖という立場になったこともないのですが、先祖になったつもりで先祖の喜ぶ供養を想像してみました。
よく言われる、墓参りを怠っているから家運が傾くのだ、とか、墓参りに行けば開運するといった類の言説。
墓参りに来ないからと言って、ふてくされたり、罰を与えようと思うだろうかと。
生きている時でさえ、そんな底意地の悪い人間にはなりたくないと思っているのに、死んでまで、いかにも俗っぽい幼稚な報復をしないと思っています。
ましてや血縁のある子孫ですし。
来てくれたら、かわいい子孫だなと目を細めることはあるかもしれません。
たしかに、先祖を敬える心の余裕と教養を持っていれば、当然仕事も家庭もうまくいくことでしょう。
線香の本数がどうだとか、お経の種類とか、これらも僕はきっと、いちいち細かいことを気にしないでしょう。
そう考えると、儀礼とか様式はなんでもよく、生前と同じような親近感を持ってもらえたらうれしいということです。
しかし、生前熱心に信仰されていた方は、形式を外れた供養をされたら目につくのかもしれません。
形式に心が伴っていれば、それに越したことはないのかもしれません。
ただ形が不完全でも心がこもっていれば、まったく問題ないと僕は思っています。
本質的に言えば、供養とは、先祖の都合や宗派の論理に規定されるものではなく、今を生きる我々の心のあり方に過ぎないのでしょう。
高額な戒名だから成仏できるのではないのです。
もし、子孫が供養のために大金を使おうとしたら、僕はきっとあの世から「そんなことより、自分や家族のために有意義に金を使ってくれ、なにより、僕のことなどあまり気にしないで、悔いの残らないように今を精一杯生きてくれ!」と叫ぶことでしょう。
今を生きる子孫の調和と成長がなによりの供物。
これが親心であり、一足先に経験したOBとしての務めなのではないでしょうか。