以前、ある人に会って、その重心の高さに目を見張ったことがありました。
聞いてみると、学生時代に走り高跳びの選手だったということでした。
体は履歴書なのだとつくづく思ったものでした。
僕自身は、学生時代を通して武道をやっており、当然、武道的な身体感覚を持つ人々に囲まれていたわけで、走り高跳びという見慣れない異質の身体感覚が、余計に際立って見えたのだと思います。
姿勢や重心の置き所というのは、意識の持ち方次第であり、また、長年の所作によるところも大きいようです。
姿勢を良くしようと、ピンと背筋を伸ばしても、外見ばかりで、動きの伴わない、極めて限定的、固定的な姿勢であって、本来は、合理的な動きを追求する過程で培われる姿勢こそ、練り上げられた正しい姿勢になるでしょう。
先人が長年探求し洗練させてきた人間にとって合理的な姿勢や動きは、古典芸能や礼儀作法、武道の中に息づいています。
もっとも、本来は狩猟や農耕の中で、自然的に身につけられていたものだったはずです。
僕自身、畑で痛感したことは、ふわふわとした土の上に立ち、そこで鍬をふるうためには、土台の安定感なくしてできないということです。
体の使い方を誤れば、力が入らず、作業効率が上がらないばかりか、即座に体に痛みが出てくるでしょう。
そこには実地の厳しさがあります。
都会的な生活では、仕事や家事を機械が肩代わりするようになって、加速度的に、身体感覚が鈍化してきたことでしょう。
それは姿勢の崩れに表れ、痛みや病気となって顕在化してきます。
今さら原始的な生活に戻れないとしても、普段の一挙手一投足、心を込めて行えるはずです。
重心はどこにあるか、理にかなっているだろうかと。
けだるい通勤もルーティンワークも、颯爽としたものに変わることでしょう。