なき仁 | Modern Tradition

なき仁

琉球の王朝については少数の文献しか残っておらず、とてもミステリアス。

舜天王統(1187頃)~英祖王統(1259頃)~三山時代(1350頃)と続き、佐敷の小按司(領主)であった尚氏が統一。尚王統(第一尚王統)を興したとされています。三山以前の英祖王統は、確かに存在したのではないかという学説が有力のようですが、舜天王統については実在したかどうか、定かではありません。
残された文献の一つ『中山世艦(1650)』に、話題の平清盛で主人公「清盛」の好敵手である「源為朝」その人が沖縄に流れ着いたと記されております。そして、なんと為朝の子孫が舜天の祖であるとされています。しかしながら、これは疑う余地なくでっち上げでしょう。1609年、薩摩によって実質古流球は滅びており、以後、琉球は国家という名目の薩摩一所領にすぎなくなっていました。1600年の関ヶ原の戦い以降、徳川の世が決定的になったことはよく知られていますが、その後の大阪夏の陣(1614)に至る間、薩摩によってこのような侵略が行われたことはあまり知られておりません。『中山世艦(1650)』が編まれる少し前、江戸幕府は林羅山らに『寛永諸家系図伝(1643)』を編纂させました。この系譜によって、幕府の禄を受ける諸家の出自を明らかにし、後世までの奉公を期待したのです。徳川家は三河を所領するにあたり、徳川の祖を源氏と称し、その後、藤原姓に。征夷大将軍になるために再び源氏へと、コロコロ祖先を変えるのですが、ともかく江戸時代は源氏を称しておりました。また薩摩といえば代々藤原姓を称しておりましたが、幕府によって源氏との繋がりにあるものに変えさせられ、源氏と称すようになったのです。そういった徳川の事情を色濃く受け、「琉球の人々も源氏ってことにしちゃおうよ」という 『中山世艦(1650)』が編まれたのですから、為朝説は著しく信憑性に欠けると言えます。

金丸の謀反によって尚氏一族は滅ぼされ、尚氏を自称した金丸が王位につき尚王統と呼ばれているのですから、姓が如何に曖昧なものであるか、建前が如何に現実的でありながら物事をねじ曲げる恐ろしいものであるかを考えさせられます。

今帰仁城


薩摩侵攻の際、真っ先に落とされたのが今帰仁城(なきじんぐすく)です。この城の起源もわかっておりませんが、様々な伝説が残っており、その一つに絶世の美女、乙樽と千代松の物語があります。

三山時代、北山を治める王には、王妃と第二王妃である乙樽(うとだる)という美しい妻がありました。長らく子を成せずにおりましたが、老齢になって王妃が身ごもります。世継ぎの誕生を待たず老齢の王は病気になり亡くなってしまいますが、可愛らしい男の子が生まれました。この子は千代松と名付けられ、もう一人の美しい王妃乙樽が乳母として我が子同様に千代松を育てました。
そんな幸せも束の間。突如、謀反が起こりました。子を産んだばかりの王妃は亡くなり、千代松は家臣に守られて落ちのびることができましたが、戦乱の中、乙樽と生き別れてしまったのです。その後、千代松は各地を転々とし、百姓姿で身を隠すなどして長い年月を過ごします。
18年後、丘春と名を改めた千代松はかつての家臣を集め、城を奪還します。そして生き別れた乙樽を探し出し、北山最高の神女ノロに任じたと今に伝えられています。

宝剣千代金丸も有名です。尚巴志によって滅ぼされた最期の山北王、攀安知(はんあんち)が所有したとされる金装の宝剣。部下の謀反により絶体絶命になった攀安知は、私が死のうとしているのになぜ独り生き残るのかと守護の霊石を十文字に切りつけました。そして自害しようとしたのですが、主の命を守る宝剣の霊力によって死にきれず、刀を川に投げ捨ててから脇差しで最期を遂げたとされています。
これだけ聞くと悲劇の王ですが、例の『中山世艦』には淫虐無道とこき下ろされております。また、現存する千代金丸の製作年が1600年代ではないかと言われておりますので、伝説は正しいのか、真相は当時の人々が知るのみです。いや、当時の人々でさえ「噂」によってしか攀安知を知らず、本当の姿を掴んでいなかったのかもしれません。歴史はどこまでもミステリー。


今帰仁猫


でもまぁ、そんなこと吾輩の知ったことではないのである by 今帰仁キャッツ