情報が充実、飽和状態の現代において「新しい」ことというのはなかなかないわけで、おそらくほとんどの物事というのが「当たり前」であったり、あるいは"理解は出来ても共感は出来ない"程度には普及していたりする。
もちろん具体的な事柄に関してはまだまだ新しい物言いは出来るのだけれども、いわゆる自己啓発的な発言等の抽象的なテーゼというのは「当たり前」になってしまうことが多い。
でも当たり前だからといって考えない、言われればわかるからといって考えない、再確認しないというのはやはり違うな、と思いながらネットの隅っこで細々と物思いに耽るわけでして…。


我々は「幸せになりたい」というけれども、「幸せになる」というのがどういう状態なのかはあまり考えない。たぶん「幸せになりたい」というときは何かしらの不満、不足している状態があって、それを克服、充足させたいということが多いと思う。
じゃあその不満や不足が満たされたからといって幸せになれたか、というと、一時的な充足感は得られても、一生このままで幸せなのかと聞かれれば、やっぱりまだ幸せにはなれていないと思うのではないか。

たいていの場合、僕らは「やりたいことはやっている」。腹が減れば飯を食うし、金が欲しければ稼ぐ。眠くなれば寝るし、歌いたければ周囲の迷惑にならない程度には歌える。本を読みたければ本を買って読むし、買えないなら借りる、立ち読みをする。なんとはなしにやりたいことに優先順位をつけて、金や労力を払い、あるいは気を遣い、可能な限りの自由を尽くしている。
この際の「金や労力」だとか「周囲の迷惑」、「気を遣う」というのは自由の制限ではあるけれども、それを押してやりたい場合にはやっぱり「やっている」のである。

となるとこの、「なりたい」というのは「やりたい」という直接的・具体的・即物的な欲求とは別に、「ステータスへの憧れ」というものを多分にはらんでいるわけで、
そしてこの「憧れ」という感情はなんとはなしの不可能性を念頭にした言葉なような印象がある。

「~になりたいなぁ」とぼやくときに、「で、実際何が"やりたい"のか」を考えることで欲求に一歩近付けるのではないだろうか。

 人間誰しも幸福を願うものである。願って不幸になろうとする人間などいない。
正確には、その願うもののことを幸福というわけだからどうしたって幸福を願っているはずである。
他人から見れば、あるいは過去を振り返ってみたら不幸と思われることでも、当人・当時は出来得る限りの最前と考えて望んでいるはずだ。

「幸せになりたい」
「幸せって何だろう」
なんだか取り留めもなく、漠然とキラキラしたものを想像して求める。
そしてときにはこう言うのである。
「幸せは今ココにあるじゃないか」と。

現在に満足して未来へ進まないことは怠惰だが、かと言って現在の充足を実感しない、自覚しないのは不誠実である。

完璧な人間がいないのと同じように、過不足のない「丸ごと幸福」な人生もありはしない。
無理に欠けた部分を満たそうとすれば違うどこかに歪みが生じる。満たされるために割いたその時間は、それ以前は別の部分を満たしていた時間だからだ。

幸せになれない、と言っているのではなく、幸せというのはおそらくそういう歪で、不安定なものなのだ。

光り輝くものばかりを求めるよりは、面倒臭がらずに不幸と対峙する強さを磨いた方が、あるいはより良い生き方が出来るかもしれない。