笠原小百合の「つれづれ一句鑑賞」~裏返るさびしさ海月くり返す~ | DEN

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「田」俳句会のブログ

裏返るさびしさ海月くり返す  能村登四郎

 

海月が裏返ることをくり返す、そのさびしさを詠んだ一句。

海月自体の動きをよく観察、発見、表現した句である。

そこには、作者自身の「さびしさ」が重なっているようにも見える。

 

「さびしさ」で切れ、「くり返す」でも切れる。

けれど、どちらもそこまではっきりとした強い「切れ」ではない。

むしろ少しあやふやで、言葉の世界を漂っているような感覚に陥る。

あえて切れを強くしないことで、海月のあのぷにぷにした軟体、掴みどころのない動きを表現している。

そこには、この句の個性がある。

俳句に「切れ」は欠かせず非常に重要なものだとは思うが、強い切れだけが俳句における正義ではないと言えるだろう。

 

句の構成にも触れておきたい。

 

・「海月」が「裏返る」とすると「くり返す」は「さびしさ」に対応して、美しい対称の句とも読める。

 

・「裏返る」「さびしさ」「海月」を「くり返す」で受け止め、句全体を包み込んでいるともとれる。

 この場合「くり返す」は切れ字の「かな」に似た役割を果たしている。

 

・「裏返る」ことの「さびしさ」が詠まれているのは明白だが、しかし次第に「裏返る」のは「海月」ではなく「さびしさ」だ、とも読めてくる。

 

ここに3つの鑑賞を挙げたが、どれも「これだ」という決め手に欠ける。

言い方を変えれば、海面を漂うような掴みどころのなさ、どんな読み方もできる多くの可能性がこの句にはある。

作者は、読み手を完全に信頼してこの句を送り出しているのだろう。

 

それこそが、この句の魅力。

そしてその掴みどころのなさ故に、季語「海月」が確かなものとなって浮かび上がってくるのだ。

 

(「さびしさ」が裏返ったら、何が見えてくるのでしょうか)

 

笠原小百合 記