磨羯宮 23.願い事は盗まれた

―12月23日―

願い事は盗まれた。
それを目にした時、輪は呆然とし、私はあきれ果てていた。
人の物や彼氏だけでなく、願い事まで盗んでいくのか、吊鐘正午の浮気相手は。
「あの絵馬、私が書いたものだったのに…」
『来年も彼と一緒に来られますように』――輪がかつてそう書いた絵馬の名前は、勝手に別の女性の名前に書き換えられていた。
「何で…」
輪は呆然としていた。もう涙も枯れたとばかりに呆然と絵馬を見つめていた。
何か気晴らしになれば、と思って輪を連れ出し、下町をぶらぶら歩いていた私達は、たまたま見つけた神社に立ち寄った。
「よし、新しいご縁があるように祈願でもしようか」なんて笑い合っていたのがついさっきの事。
『新しい縁がありますように』、そう書いた絵馬を掛けようとしていた輪は、絵馬処で偶然にも名前の書き替えられた絵馬を見つけてしまった。
この女は、一体どこまで人の物を盗めば気が済むのだろう。私は呆れながらその絵馬をこっそりとると、真っ二つに割った。
『パキッ』と小気味いい音を立てて薄い絵馬が割れた。
「え、あの、マサさん?」
「これでいい。」
私は誰も見ていないのを確認して、こっそりその絵馬をポケットにしまった。
最も神社の中には私達以外誰もいなかったので、誰か見ているんじゃないかというのは杞憂だったのだが。
「行こうか。」
唖然としている輪の肩を叩いて、私は次の目的地に向かう。


この神社まで来る道すがら、輪はポツリポツリとこんなことを話していた。
「昨日、正午の二股相手は知らない人だったって言いましたけど…。一晩寝て、思い出しました。」
「知ってる人だったの?」
「ええ。」
輪は声を潜めて、
「刑部夢美(ぎょうぶ・ゆめみ)。私の、芸能界での友達の一人です。」
刑部夢美は輪と同い年の女の子で、雑誌のモデルをしているのだという。輪や正午と同様に今人気がある若手タレントの一人で、輪もその子とテレビ番組で何度か共演したことがあった。
「夢美とは、彼女のお母さんの紹介で知り合ったんです。
 彼女のお母さんはテレビ業界ではかなり有名な人らしくて…」
「お偉いさんとか?」
「そう、ですね。テレビプロデューサーだって言ってました。」
「プロデューサーか。それなら結構上の地位にいる人だね。
 で?」
「その人の知り合いで夢美と会って、そこから友達になっていったんです。
 最初は明るくていい子だと思ってたんですけど…だんだん、そうじゃないってわかってきたんです。」
『明るくていい子』だと思われた夢美は、その実自分を中心に世界が回っていると思っているような、まあ早い話が「自己中の人間」だったらしい。
「自分が正しいんだと言ってきかなくて。私も彼女の言うことに反論したら物凄い剣幕で否定されたことが何度もありました。
 周りの人も、彼女がどれだけ酷いことを言っていても何も反論できなくて、ただ彼女に同調することしかできませんでした。
 どなたかは『あいつはお偉いさんの娘で下手に逆らったら自分達の首が飛びかねないからいやいや同調してるだけだ』って率直におっしゃってましたね…」
「つまりあれか、その子に結構振り回されてたんだね。」
「ええ。」
それでもまだ耐えられるレベルだったものの、今回の件でもう耐えられなくなった。出来る事なら夢美と縁を切りたい―――輪はそう話していた。
「それにしても、正午はなんでそんなワガママ娘なんか好きになったんだろうね。」
「さあ。知りたくもないです。」
輪は顔を歪めていた。


板橋本町商店街の近くにある交差点。そこに目的地はあった。
住宅地の角にある、大きな榎の木。
「あの、ここって…?」
「『縁切り榎』よ。ここでお願いするとどんな悪い縁も切ってくれるんだって。」
輪と一緒に境内に入る。
境内、といっても小さい祠や縁みくじのガシャポンがあるくらいで小ぢんまりとしているけれど、大きな榎の葉影枝影のお陰で昼でも薄暗い。
その上絵馬掛け場にはこれでもかというくらい縁切り祈願がビッシリ書き込まれた絵馬が大量にかけられているものだから、長居していたら悪いものを見るんじゃないかと思えるくらいの雰囲気がある。
「する? 縁切り願い。」
「…いいんですか?」
「いいのいいの。この際だから、悪い縁は全部切っちゃいな。
 特に、嫌がらせじみた真似をしてくるどなたかとの縁はね。」
それを聞くと輪はハッとした顔になり、すぐにカバンの中をごそごそ探り始めた。
「お賽銭?」
「ええ。」
「真面目だね。」
「まあ…ね。」
ばつが悪そうに笑った輪は賽銭(1000円も入れていた。この年の子にしては太っ腹だ。)を納めると、早速絵馬にさらさらと書いた。

『泥棒猫との縁が切れますように。』

彼女はそれだけ書いて絵馬を掛けた。
夢美の名前は出さなかったが、見る人が見れば分かる内容だった。
正午のことは書かないの?とは敢えて聞かなかった。
彼女は、正午が自分の下へ戻ってきてくれることを望んでいるんだろう。それを想えばそんなことは言えなかった。

実を言うと、この時はまだ私も正午を信じていた。
私が知るかぎり、吊鐘正午は彼女にも友人にも優しい男だった。金持ちの女にホイホイと乗り換えて恋人を捨てるような冷たい男ではなかったはずだ。
刑部夢美という女性にぞっこんだとしても、ネコカブリの彼女の本性を知ればいずれ戻ってきてくれる。そう思っていた。

その甘い考えは、数日後、ひっくり返されることになる。