ふりさけ見れば(121)
安部龍太郎
西のぼる 画
「船人どの、風切りを焼き落としていいですか」
「どうする」
「火矢を射て火をつけます。そうすれば綱も燃えて、主帆が下ろせるはずです」
「構わん。やってみろ」
「分かりました」
真備は貫頭衣の袖を裂き、硫黄をまぶして矢尻に巻きつけ、羽栗吉麻呂に厨房で火をつけてくるように命じた。でき上がった火矢は三本。さすがに硫黄の効果は素晴らしく、黄色い炎を勢い良く上げている。
真備は火矢を弩(ど)につがえ、船尾に座り込んで風切りを狙った。だが宙に吊るされた小さな帆は、風に吹かれて右に左に目まぐるしく動く。
しかも船が上下、左右に揺れるので、狙いを定めるのは容易ではなかった。
(南無三)
神仏のご加護を願って矢を放ったが、大きく上にはずれた。二本目を放った時には、帆柱が身をかわすように横に傾いた。
(畜生、仲麻呂。力を貸せ)
心の中で悪態をつくと、風がぱたりと止み、風切りがだらりと垂れ下がった。真備はそこを目がけて命中させたが、次の瞬間大波が打ち寄せ、真後ろにはね飛ばされて頭を強く打ちつけた。
どれほど時間がたったのだろう。真備は大勢のざわめきで我に帰った。
あお向けになって見る大空が青い。船も揺れていないので、嵐はおさまったようだった。
「大丈夫ですか。目まいや吐き気はしませんか」
翼が声をかけた。翔と交代で介抱してくれたのである。
「頭が痛い。俺はどれくらい気を失っていた」
「昨日から丸一日です。お陰で日本に着くことができました」
それを聞いてはね起きた。頭が割れそうに痛んだが、水夫たちをかき分けて舳先に出た。
小さな島が二つ。豊かな樹木におおわれ、そなえ物のように海に置かれている。海岸は岩場の多い浅瀬で、打ち寄せる波が白く泡立っていた。
「左が益救嶋(やくしま)、右が多祢嶋(たねしま)だ。よくやってくれた」
船人がねぎらいの言葉をかけた。
真備は遠くに見える二つの島を喰い入るように見つめた。あれが我が祖国、我がふるさとである。東のはずれの小さな島国だが、ようやく帰れた嬉しさに涙がとめどなくあふれてきた。
(日本経済新聞より)