血のつながりに悩み、苦しみ抜いた日々 麻原彰晃死刑囚の四女…示唆式速記基礎符号による符号化 | 個人用途の新速記法 EPSEMS(エプセムズ)

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血のつながりに悩み、苦しみ抜いた日々

 麻原彰晃死刑囚の四女

  …示唆式速記基礎符号による符号化







 ↓ 2014年6月15日 中日新聞 第34面より抜粋引用




  父の罪 許されない


   オウム 麻原死刑囚の四女




血のつながりに悩み  ↑ ハート形のネックレスを見せる麻原彰晃死刑囚の四女 ( 一部画像処理 )




 オウム真理教の麻原彰晃死刑囚 ( 59 ) = 本名松本智津夫 = の四女 ( 25 ) が、共同通信の取材に応じ 「 父は許されない罪を犯した。 被害者の方々に償いきれるものではなく、死刑の執行を望んでいる 」 と現在の心境を語った。


 四女によると、1989年、静岡県富士宮市の教団施設で生まれ、6歳の時に麻原死刑囚が逮捕された。 その後、ほかの家族らと千葉、茨城、栃木各県や都内などを転々とし、16歳で家出した。


 一連のオウム事件をめぐる公判記録を調べて教団の罪を理解し、18歳で信仰と決別。 現在は家族や信者と連絡を絶って生活しているが、罪悪感から繰り返し自殺を図ったという。 「 父の娘に生まれた自分を、この世から消し去りたいくらい憎んでいる 」 とも話した。


 麻原死刑囚とは、2008年まで6回ほど収容先の東京拘置所で面会。 当時は丸刈りでひげもそり、だいぶ痩せた様子だったと説明した。 精神障害の状態にあるとの見解に対しては 「 会話が成立したことがある 」 と疑問を呈した。


 教団の後継団体について、四女は 「 かつて殺人を容認した教義は変わっていない。 再び父のような絶対者が現れれば、第2の事件が起こりうる 」 と強調、信仰をやめるべきだと訴えた。


 麻原死刑囚の子どもは信者の間で 「 皇子 ( こうし ) 」 と呼ばれ、「 神 」 として振る舞うことを求められていたという。 以前の家族との生活は、100円の靴下を買って喜ぶ一方、ゲームセンターで月に30万円使ったこともあり 「 経済的価値観がずれていた 」 と振り返った。


 麻原死刑囚によって、幼い時には教団元幹部の遠藤誠一死刑囚 ( 54 ) の婚約者にされていたとも明かした。


 教義で禁じられているとされる 「 愛 」 を意味するハートのネックレスを着用。 「 私にとって信仰が抜けたとの象徴 」 と説明した。 




  いじめや就職差別

   つきまとう 「 教祖の娘 」



 信仰と決別しても 「 教祖の娘 」 という烙印 ( らくいん ) は消えない。 いじめや就学拒否、就職差別 … 。 麻原彰晃死刑囚の四女は、血のつながりに悩み、苦しみ抜いた日々を振り返った。


 「 市民が不安に思っている 」。 麻原死刑囚が逮捕された約5年後の2000年夏。 姉弟や信者数人と茨城県龍ケ崎市に引っ越してきた四女は、小学校への就学を拒否された。 ようやく認められたのは翌年の春だった。


 待っていたのは、クラスでのいじめ。 「 人殺しの子ども 」。 集合写真は自分の顔の部分だけくりぬかれた。 地下鉄サリン事件の記憶が色濃く残る都心のベッドタウン。 友人の母親は言った。 「 あなたオウムでしょ。 うちの子と関わらないで 」


 中学卒業後、教団関係者と交流する家族から自立したくなり、家出を繰り返すように。 児童相談所に保護されたほか、元信者の家を転々とした。 数カ月間、インターネットカフェや路上で寝泊まりしたこともあった。


 働き口が決まっても、しばらくして身元が分かると解雇された。 「 絶対に間違っていると思う。 でもどうしようもなかったんだ 」。 上司は申し訳なさそうに言った。 理由は経営に悪影響が出るかもしれないから。 その後もアルバイトや派遣の仕事を転々としたが、長続きすることはなかった。


 周囲に受け入れられようと努力してみても、無力感がこみ上げる。 「 この血が罪なのでしょうか。 私の立場で言えるのか分からないが、社会はあまりにも非情すぎる 」
追加 血のつながりに悩み

  ↑ 示唆式速記基礎符号による符号化例

     用紙 = A4コピー紙 ( = 1枚 → 縦置き状態で横書き )

     筆記具 = ボールペン ( ZEBRA Surari 0.7 )



   訳 ( 全15行 )

       ∥


 「 市民が不安に思っている 」。 麻原死刑囚が逮捕された約5年後の


 2000年夏。 姉弟や信者数人と茨城県龍ケ崎市に引っ越してきた


 四女は、小学校への就学を拒否された。 ようやく認められたのは翌年の


 春だった。 待っていたのは、クラスでのいじめ。「 人殺しの子ども 」。 集合写真は自分の


 顔の部分だけくりぬかれた。 地下鉄サリン事件の記憶が色濃く


 残る都心のベッドタウン。 友人の母親は言った。 「 あなたオウムでしょ。 うちの子と


 関わらないで 」  中学卒業後、教団関係者と交流する


 家族から自立したくなり、家出を繰り返すように。 児童相談所に保護されたほか、


 元信者の家を転々とした。 数カ月間、インターネットカフェや路上で寝泊まりしたことも


 あった。 働き口が決まっても、しばらくして身元が分かると解雇された。


 「 絶対に間違っていると思う。 でもどうしようもなかったんだ」。 上司は申し訳なさそうに言った。


 理由は経営に悪影響が出るかもしれないから。 その後もアルバイトや


 派遣の仕事を転々としたが、長続きすることはなかった。 周囲に受け入れ


 られようと努力してみても、無力感がこみ上げる。 「 この血が罪なのでしょうか。


 私の立場で言えるのか分からないが、社会はあまりにも非情すぎる 」




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