こんにちは〜

 

みなさん、お元気ですかあ黄色い花

 

私は、世間的に考えると、シンママ貧困世帯、長男はひきこもり精神病…と崖っぷちな感じなのですけど、

気分や気持ちがコロコロ変わるADHDなので、そこまでどっぷり不幸に浸れず、

まあ、日々、なんとか楽しく暮らしています。

 

自分の部屋にいられなくなり、リビングで暮らしている長男。

その分、私と次男と接触が多くなり、兄弟小競り合いで次男がギャーっと毎日泣かされています。

 

長男は私にもケンカをふっかけますが、私が忍耐強く論理ゲームに付き合ってあげると、少しは落ち着くので、ASD傾向強めの彼には、しつこい討論が心の安定なんだと思い、できるだけメンドクサイ話に付き合わなければなあと思います。

 

それでも、週末長男が私の実家に泊めてもらっていた時は、長男がいないフリーダムさに私も次男も慣れてしまって、長男が帰って来て、またいろいろと気を遣わなくてはいけないんだーと、

かなり気分が滅入ってしまいました。

 

しかも、あれだけ失くすなと言ったものを案の定なくし、

なくさないよう対策して渡したのに、その対策も無視して持って行き、

紛失したあかつきには、あーやっぱりと思いつつも、

ものすごく徒労感を感じてしまい…

 

いつものことですけど、あー何にも期待してはいけないんだと

私は長男に何にもしていけないのだと思ってしまうのですよね。

 

よく、鬱状態はアドラー心理学でいうと、「無能の証明」をしていると言われますが、

長男は本当に、何にもしなくても、誰のためにもならなくても、無能でも、自分が存在しているだけで、

許されるということを証明したいのだと思います。

 

ある意味すごい生き方、世捨て人というか哲学者みたいで、そんな長男のことを認めたいと思いますが、家族ののびのびと暮らす権利を侵害してくるのはどうかなーと心の中で私は不満なのでしょうね。

 

でも、「無能の証明」をしなきゃいけないほど、長男を子ども時代に追い込んだのは私なので、私がある程度我慢しなきゃいけないのだと、私的にはがんばっているわけです。

 

「長男を子どもの時追い込んだのは私」とする自責的な偏った考えは不健康だと客観的にはわかっているのですけど、まだ、この思いがどこか私の中でくすぶっていますね。

 

長男が引き籠らなくてはいけなくなった理由は、私にだけではなく、家族全体、学校全体、社会や時代全体にあるのだけれど、今の時代、母親が一番、子どもに生きる希望とパワーを与えられるという点で、それができなかったダメな母親(人間)というレッテルを自分で自分に刻印しているのでしょうね。

 

まあ、でも、今、のんびりと生活して、他者評価や学校や学歴から縁遠い生活ができて、

社会活動に貢献できなくても生きているだけで十分じゃないかと思うことができています。

 

生きて、生活しているだけで幸せであるということを実感できて、

 

長男の生き方は、現代社会の期待や欲望や他者評価が多い世の中で、ある意味、賢いというか…

初めからそんな世界の中に入ることを拒否しているすごく潔い人なのだなあと感じています。

 

そういう人は、いつの時代でもいるし、

どんな生き方が正解で、間違っているとかは、

他者が決めることではなくて、自分が決めることなので、

長男が自分の生活に満足できればよいのです。

 

それには、まず、私が他者評価の生き方ではなくて、

自分の生活に満足して幸せだと思うことが必要なのだと思います。

 

私は、父親譲りの世間的な承認欲求(特別な存在でなければいけない)が強いところもありましたが、

今は、世間的に立派な仕事をしているとかお金持ちとかじゃなくても、

日々、幸せだなと思える瞬間が多い生活をできればよいと願っています。