当ブログは、自閉スペクトラム症の当事者である僕が、いつも見ている世界をできるだけ詳細に言葉にしていくことで、皆さんに他者の価値観を鑑賞していただく試みです。

どうもクリハロです。僕の見ている世界を少し覗いてみませんか?​

コメントや各種SNSのフォロー(X YouTube)よろしくお願いします。

 
サムネイル

 

 クリハロの哲学談話、第一回は「人殺しって悪いこと?」だったね。

 まだ読んでいないと言う人は、先に(問)の記事を読んでね。

 

 

 上の記事でみんなで考える「問い」としたのは「殺人軽犯罪説に対する反論」だった。これには「遺体の処理や事務的な手続き等は多くの被害を与える」だとか、意見を頂いたけれど、今回は僕なりの視点で反論を試みることにするよ。ただ、僕の考えていることを話すというだけで、別にこれが「正解」だとかそんなことを言いたいんじゃない。むしろ哲学的な議論が目的だから「この部分はおかしいんじゃないか」とか指摘があれば教えてね。

 

 この問いへの回答は、Aだ、Bだと、簡潔に述べられる類のものでは無いから、長々と文章が続く記事になるだろうけれど、僕が採用している「世界観(世界の見方)」を話すことから始めて、その世界観においては「殺人」を重罪とすることに矛盾がないということ、つまりは、僕が殺人を重罪だと捉えるに足る論証を示すよ。

 

 

 “からだ”とは何か

 

 デカルトの「我思う故に我あり」または、カントの「対象が認識に従う」というのは有名だよね。僕は自分が知覚したことだけで神の存在を認めて、それを思案の出発点としてしまうのはとても危険だと思うんだ。だから、この「わたし」の意思によって世界が創造されているという、無駄な前提の少ない公理をを採用して、ここから議論していきたい。

 その上で、殺人の罪を考えるにあたり、まず人間という個体としての生物学的な肉体は、「わたし」の意思やこの世界に対して、どのような特別な意味があるんだろうかと、規定することから始めよう。

 

 この肉体は、考えるときの中枢で「意思」というものを作り出す中心だといえる脳からの直接的な信号によって、動かすことが可能だよね。

 また、その脳の働きを活発にするための養分を受け渡すなどの役割もあって、この世界に存在するとしている自分の肉体以外の任意のものとは隔たりがあるように感じる。だけど、単に意思によって動作を与えられたり、検討に奥行きを生む役割があると考えられる物事は、自身の肉体以外にも多く存在するんだよ。

 

 例えば、僕たちは当たり前に、リモコンを使って機器に電源を入れたり、時計を見ることで時間を把握したりしているよね。これは人間としての「動作」や「認知」を肉体一つでいるときよりも確実に拡張していると言えるんじゃないかな。

 こうして、技術革新が進んでいる現代社会においては、肉体以外の道具も世界を創る意思の働きに強く影響を与えているよね。服や眼鏡に補聴器、義手や義足、人工呼吸器なんかは、もう「からだ」としての役割を持つと、多くの人が簡単に理解できると思う。同じように、コンピュータによって遠くの人と繋がれるし、色々な事象を覗くことができる。他者の存在によって、多様な意見を知ったり、何かを代わりにやってもらったりできる。自動車も、人工知能も、この部屋も、あの風景も、「わたし」の意思に五感のように干渉し、手足のように動作を与えて、連携しあっているんだ。

 このように、世界は肉体が行うことの拡張でしかないからこそ、境界は曖昧に思えてきて、世界そのものを「からだ」と呼ぶことに、僕は躊躇いがないんだよね。

 

サムネイル

​とはいえ、この世界のあらゆるものは、認知の手助けを行うことは多くあるけれど、意思を直接反映させられる場合は少なく感じるよね。

存在を認めたものであったとしても、望み通りにそのものを動かすことができないなら、それは肉体で言うところの髪や爪のようなもので、あえて「からだ」と広義に扱うことにあまり意味がないんじゃないかと思えてしまうな。

 

 そう、そんな切り捨ててしまえるよな「からだ」の一部だけなら、そこまで意味がないよね。「生きる」とは、腕力を持った重要視できる「からだ」を拡張していくためにすることだと、これから論じるために、「からだ」と世界を同一視する「一体視(僕が勝手に名付けた)を紹介したんだよ。次は、この世界観のなかで、生きることと死ぬことがどんな意味を持つのか考えてみよう。

 

 

 “死”とは何か

 

 「わたし」という意思は、初めにこの肉体に宿るけれど、これは植物でいう子葉のようなもので、これから大木をなすための萌芽にすぎない。

 これについて説明をするね。まず、この意思というものは、一つの脳に留めておいては、処理できる量や速度、寿命などの観点で見ても限界があるのは言うまでもないよね。生まれながらに約束された肉体の崩壊の瞬間があるんだから、その限界を突破しようと、他者に意思を伝播させていくことで、より高機能で不死となる意思の創出を試みるのは、至極当然なことだと思う。

 

 僕はこの他者への意思の伝播に際して、あらゆるコミュニケーケーションのなかでも「教育」が特に向いていると感じていて、尊く永い意思のためにも次の時代を担う子どもたちに僕の意思を受け継いでいって欲しいと考えているよ。ただし、人それぞれどんな方法を使ったとしても、この「からだ」を拡張させて、腕力を高める行為こそが「生きる」ということだ。「からだ」という大木に対して、子葉の役割を果たすオリジナルの肉体にのみあった意思を敷衍させ、その肉体そのものには価値を減らしていくことが大切なんだ。そうすることで、「からだ」は多面的に大きく育つし、この一人称視点でも生得的にある死の恐怖から解放されていくんじゃないかな。

 

 「からだ」の死とは、世界を創っている意思が無くなり滅亡することを意味する。これは、「わたし」としても断固拒否しなくてはならないね。ただ、単に子葉が枯れる、この肉体の死というのは、十分に拡張の兆しが見えた「からだ」にとっては、一部分の麻痺のようなものであって、死とは言い難いと考えられるよ。

 

サムネイル

​この「一体視」によって生きることは、他者を道具的に扱うという意味では、ハイデガーのダス・マン(世人)に近い気がしてしまうんだけど、どうかな?

 

 なるほどね。でも、それと大きく違うのは、自己は他者の道具的存在ではないということだよ。ただそこにある世界に埋没して自己が均されていくのではなく、自己が世界、つまりは「からだ」全体を易しく扱うために、主体的に世界を均して観ることが重要だとしているんだ。世人となることなく特別な「わたし」として生きていくなかで、生前に自分が規定してきた確立した世界があれば、その世界はたった一部分の麻痺程度で壊れてしまうものではないと思えないだろうか。

 

 

 “殺人”とは何か

 

 「殺人軽犯罪説に対する反論」を話すまでに随分と前提が長くなってしまったけれど、ここまで定理を導いたら、あとは代入して値を求めるようなフェーズがあるだけだから安心してね。

 

 それにしても、死さえ大きな問題ではないと言うなら、殺人だって大した罪じゃないんじゃないかと素朴に考える人がいるかもしれない。ただし、それは「からだ」の拡張の黎明を子葉として適切に遂行できて、肉体の価値を擦り減らした場合の話をしていて、それが作られていない状態で、無闇に死を与えられるのは、これからの「からだ」自体を死にやすくしてしまうという、意思にとって何が何でも避けるべき状態だから、まず「他者がわたしを殺すこと」というのは、「からだ」つまり世界にとって重罪と言えることだね。

 

 問題なのは「他者同士で殺し合うこと」「わたしが他者を殺すこと」の二点において重罪だと言えるかという議論だよ。

 

 「他者同士で殺し合うこと」について

 これを重罪だと説明するにあたり、被害の実態については全く関係ない。被害が存在していない飲酒運転や薬物乱用などを取り締まることと同じようなことだよ。

 「からだ」の拡張のためには、専門的に細部の事柄を行うための職業人であるとか、困難なく過ごすために人間が多く必要であることは言うまでもないよね。そんな多様性があるからこそ、屈強で不死な「からだ」になっていくもんね。ここで、殺人を軽犯罪と捉えるとすると殺人が増加して、誰もが死ぬ確率が上がる。正確に言えば、n秒後に死んでいる危険性が高まるから、任意の人間が計画的な行動が取りにくくなって「からだ」の拡張に対する重大な障害となるよね。

 殺人は、「からだ」となる人間の母数を減らす行為だから、殺人を正しいと信じて行なっている存在というのは、例えるなら肉体に対する癌細胞のような物であって、切除して問題ない。ここで「切除していい」ということは死刑などを厭わないということであり、そういう罪は“軽犯罪”とは言い難いよね。また、そういった確信犯にでなくても殺人を犯すような人格が社会に存在することは、やはり周りの人間が計画的な行動を取りにくくなるから、切除または更生させる必要があると言える。

 

 「わたしが他者を殺すこと」について

 次にこちらは、自分の意思によってなされることだから、「重罪として扱うべきか」という点においては、議論する価値がない。なぜならば、この世界は私の意思の知覚によって創られるものであるという大前提の上で、殺人を正しいと認める意思がもしあるとしても、それを公理としたら正しくなってしまうからね。しかし、腕力のある「からだ」というものはそもそも自分の意思が伝播していくことで創られたものであるから、他者も「わたし」と同様に考えていることになるよね。けれども、先に述べたように、他者同士で殺し合うことは「からだ」にとって害悪であるから「殺人が軽犯罪だ」というような意思は、押し広げるべき価値観ではなくそこに矛盾が生じる。つまりは、意思そのものの価値が担保できなくなるために、これはしない方がいいと言える。

 

 以上より、「一体視」の世界観の上では、いかなる場合においても、殺人は重罪であるとした方が、矛盾がないということを説明できたね。だから僕がそう考えることも妥当だし、社会全体、つまり“全身”がそう考えるべきだと、教え続けることにも価値があるわけだね。

 

サムネイル

​至極当然な問題に感じたけれど、丁寧に論理を積み上げて、この問いかけに答えるためには、生きることや死ぬことといった命の意義や、構造的な社会のあり方を考える必要があって、本当に難しい問いだったね。

 

 確かに、とても難しい問いだった。でもだからこそ、僕たちは「立ち止まって考える」そんな哲学対話に心惹かれるんじゃないかな。どうやって生きようか、どうやって死んでいこうか、そういうことは、なんとなく生きていては考えられないし、人間らしく成長し、一秒一秒を意義深くしてくれるのは、哲学的な見方だと僕は思うよ。

 

 みんなの意見もたくさん聞かせてね。また次のクリハロの哲学談話でしてみたい議論になりそうな「問い」とかもあれば、教えてくれると嬉しいよ。あと、くれぐれも人を殺さないでね。

 

今回も、最後までご高覧いただき、ありがとうございました!

よければ、このブログのフォローもよろしくお願いします。

 
サムネイル