生まれつき耳がきこえない高齢者と向き合う職員は誰もが最初は戸惑いがあると思う。

(もちろん、耳のきこえない職員も戸惑いがある)

 

「手話もできないし、今まで耳のきこえない人と関わってこなかったからどう接してよいかわからない。。。」

 

これはうちの施設に通っている耳がきこえる利用者がいつもいう言葉だ。

 

私たちは、いつもその話をきいて、

「今のままでいんだよ。手話も少しずつ慣れてくるし、

それにきこえない人もあなたと話したいと思っているからたくさん話しかけるんだよ。

一緒にいるだけでいんだよ」と話す。

 

すると、その方は「そうか‼何かしてあげようと思ったりするからいけないんだ。ただ一緒にいればいいのか」と、

晴れ晴れしい顔で話してくれる。そして、「あー話してよかった。スッキリした」と何回もいってくれる。

 

これは、宅ろう所 太陽と月では日常的な話。でも、他の施設では非日常的な話だと思う。

 

では、これを認知症の方との会話について置き換えてみよう。

認知症中重度の方の中には、話が支離滅裂で会話が成立しない人もいる。

 

私たちはその方に対して支持的に話しているつもりが、いつしか「あれやってこれやって」と指示的になってしまう時がある。

あげくには「こっちにきて!!あっちに行ってはダメ」とか、そんな声かけをしてないだろうか。

ふとした瞬間、耳がきこえない人にはそんな風な言い方をしないのに何で認知症の人にはそんな声かけをしてしまうのだろう。

と疑問に感じた。手話だから?言語が違うから?もしかしたら、手話でもそんな言い方になっている?

 

そもそも、私たちはきこえる認知症の人は同じ耳がきこえる人だから話が通じて当たり前だと思っていないだろうか。

きこえない人に対しては通じなくて当たり前だから、一生懸命に伝えようと努力するのに。。。

 

「手話通訳の世界では表出された手話(言葉)ではなくメッセージを読み取るように」と教わる。

メッセージとは話者の意図。心の言葉だ。

手話通訳者はその言葉を読み取って、通訳をする。単に日本語にするのではなくて、翻訳が求められる場面もある。

認知症の支援も同じで発している言葉ではなく、その人の動きや表情から真意を探らなくてはならない場面がある。

問題行動と呼ばれる行為の裏側には、その人がゆずれない何かがあったりするのだろう。

そう考えると、耳がきこえない高齢者とのコミュニケーションと認知症の利用者とのコミュニケーションはどこか通じるところがあるのかもしれない。

 

手話を学ぶという事は、生い立ちや背景を学ぶという事。その人の生きてきた歩みを知るという事。

認知症の人が言葉にできない訴えを読み解くのも、介護職がきこえない人との接し方を学ぶことにひいては通じるのかもしれないと思った。