過去記事『江戸の護り~上野寛永寺①②』(2022年1月15日・22日付)と『皇城の鎮、日枝神社』(2020年10月16日付)の中でも少し触れましたが、現在の皇居、すなわち江戸城の鬼門封じのために天海(てんかい)和尚が配置した寺社の中で、一つだけ残っていた神田明神(東京都千代田区)を訪ねました。

 

 神田明神(正式名称は神田神社)は江戸城の鬼門にあたる北東の方角を鎮護するために、もとは千代田区大手町付近にあったものを1616(元和2)年現在地に遷座し、以降“江戸の総鎮守”として広く親しまれているそうです。こちらが本郷通りに面した青銅の大鳥居。立派ですキラキラ

 

 大鳥居脇に店を構える“天野屋”さんは米麹から手づくりされる甘酒や納豆、味噌が名物で、江戸時代より6代つづく老舗だそうです。お店のつくりにも店頭に飾られた神輿にも歴史を感じます。

 

 ショーウインドウのレトロな飾りもかわいいラブラブ

 

 天野屋さんの創業は1845(弘化3)年ととても古く、店舗の地下6mのところには1904(明治37)年に建築された煉瓦造りの室(むろ)という地下室があり、今でもそこで商品に使われる麹を製造しているそうです。

 

 参道の先には美しい二層建ての“隋神門”。『神田明神』と書かれた御神燈(提灯)に江戸の風情が漂います。

 

 手水舎(てみずしゃ)は隋神門の横にあります。

 

 御手水を取り、

 

 壮麗な隋神門をくぐります。

 

 隋神門をフレームにカメラ

 

 右手は“神楽殿”。表に描かれているのは神田祭の様子かな音譜

 

 神田明神の御祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、平将門命(たいらのまさかどのみこと)の三柱で、社伝によると創建は730(天平2)年、武蔵国豊島郡芝崎村(現在の東京都千代田区大手町)に入植した出雲系の氏族が大己貴命を祀ったことに始まるそうです。Wikipediaには、神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建されたので神田ノ宮と称したと記されています。

 

 平将門というと939(天慶2)年に“平将門の乱”を起こして朝敵となり、討ち取られたあと首級を京の七条河原に晒されますが、怨念によりその首は三日後故郷に向かって飛んで行ったという伝説があり、その首の飛来地がまさに神田明神の創建地で、今でもそこには“将門塚”があります。その後江戸では天変地異や疫病の流行が続き、将門の祟りとの噂も囁かれたことから、将門塚の供養とともにその霊を神田明神に祀ることになったそうです。明治に入り、朝廷に刃を向けた将門は謀反人ということで一時御祭神から下ろされ摂社に遷座されますが、その後神職や氏子の皆さんの願いにより1984(昭和59)年、ふたたび神田明神の三の宮として複座されたそうです。

 

 朱塗りの美しい拝殿に参拝してから境内を回ります。

 

 まずは、ひときわ目を惹く“だいこく様尊像”です。一の宮の大己貴命(おおなむちのみこと)は別名大国主命(おおくにぬしのみこと)とも呼ばれ、音読みでは「ダイコク」となるので同一視されたものでしょうか。神田明神のだいこく様、高さ6.6m、重さは30トンもあり、石造りとしては日本一の大きさを誇るそうです。

 

 かたや木の実の舟に乗り、常世の国から海を渡って来臨されたと伝わる少彦名命(すくなひこなのみこと)は、イルカや亀や鯛や飛び魚に守られながら波濤の中を進む様子が立体的に造形してあり、小さい神さまながら迫力満点ビックリマーク。大己貴命のだいこく様に対して、この少彦名命には“えびす様尊像”の名がついています。

 

 つづいて境内社を順に巡ります。こちらは“日本橋魚河岸(うおがし)水神社”。御祭神は弥都波能売命(みづはのめのかみ)だそうです。

 

 三天王一の宮の“小舟町八雲神社”、

 

 二の宮の“大伝馬町(おおてんまちょう)八雲神社”、

 

 三の宮の“江戸神社”の御祭神は、いずれも建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)だそうです。

 

 社殿の裏手には、神輿の奉安庫をはさんで稲荷神社が3つ並びます。こちらは“浦安稲荷神社”、

 

 “三宿稲荷神社”と“金刀毘羅(ことひら)神社”の相殿(あいどの)、

 

 そして“末廣(すえひろ)稲荷社”、稲荷神社の御祭神はいずれも宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)だそうです。

 

 胸を張り姿勢のよい末廣稲荷社のお狐さま。いいですねぇ~ラブラブ

 

 “合祀殿(ごうしでん)”は複数の神社を一つにまとめたもので、ここには富士神社など7つの御神体が収められています。

 

 そして“祖霊社(それいしゃ)”。社殿をぐるりと囲む境内社はいずれもとても美しく、一つひとつお詣りしながら巡るのも楽しいです。

 

 境内に戻るとちょうど、神馬(しんめ)の「明(あかり)ちゃん」が陽当たりのよい神馬舎から顔を出していますラブラブ

 

 案内板によるとあかりちゃんは信州佐久高原生まれの牝の芦毛(あしげ)で、歳をとるごとに白い毛が増えて白馬になるそうです。「あかりちゃんビックリマーク」と声をかけると振り向いて、ゆっくり歩み寄ってくれる可愛らしい神馬さん馬です。

 

 借景には高層マンション、大都会東京の真ん中にありながらも境内には穏やかな気が満ち、心なしか時間もゆっくりと流れているような気がします。

 

 社殿前の注連縄の掛かるこの大銀杏が御神木のようです。

 

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 だいこく様の後ろにある近代的なビルディングが“神田明神文化交流館EDOCCO(江戸っ子)”で、1階にはおしゃれなカフェやグッズショップがあり、御朱印もこちらでいただきます。カフェのカウンターに並んでいたオリジナル飲料なのかなはてなマーク“神社声援(ジンジャエール)”には思わず笑っちゃいました爆  笑。グッドアイディア合格

 

 グッズショップをぶらぶらしていたら、我が家の手づくり神棚にちょうどいいサイズの神具一式を発見目ビックリマーク。早速購入してきましたラブラブ

 

 文化交流館EDOCCOの向かいには結婚式場の“明神会館”があり、

 

 その横には注連縄の掛かる“さざれ石”と銀杏の切り株があります。案内板によると切り株の方が江戸時代からここにあった銀杏の木ですが、枯れてしまったので上部を伐採、今ある木はそのひこばえ(切り株などから出る若芽)だそうです。

 

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 そこから下へとつづく急な石段が“明神男坂”。何かのアニメの聖地でもあるそうですが、わたしはそれよりもこの右の小さな看板に目が行きます。ここにはかつて1877(明治10)年創業の“開花楼”という料亭があり、江戸の通人や粋人が集まるところでしたが、創業者の坂本氏が明神の崖の土を捏ねて猪口(ちょこ)を焼き宴会に供したところ、その猪口はいくら酒を注いでも染み出して使いものにならなかったので、“へなちょこ”と呼ばれたそうです。それが転じて「へなちょこ」は未熟者を嘲ることばになったのだとか。へぇ~。

 

 明神男坂は68段、しっかり上り下りしました。

 

 上った先が“男坂門”です。

 

 湯島聖堂へ行きたいので境内に戻って隋神門から出ると、参道に“名物餅いなり”の文字を発見キラキラ。こういうのだけは見逃さないんです目(笑)。

 

 折に入った持ち帰り用もあるのですが、2個入りの食べ歩き用を店内の椅子に腰かけていただきました。ガリの添えられているのがふつうのいなり寿司、左の舟のが“餅いなり”、なんと中には酢飯ではなくやわらかいお餅が入っているんですビックリマークこれが予想外に美味しくて箸が止まりません。お揚げさんの味つけもシャリの方は薄甘めでジューシー、餅の方はしっかりとした甘みと触感が絶妙で、いっぺんでファンになってしまいました。神田明神下“みやび”さんの餅いなり、おすすめですっ!!

 

 さて身(お腹)も心も満たされて、神田明神から歩いて数分の“湯島聖堂(ゆしませいどう)”(東京都文京区)にやって来ました。実はその存在は知りながらもきちんと訪れるのはこの日が初めてなのでとても嬉しいですラブラブ。案内図によるとここが正門にあたる“仰高門(ぎょうこうもん)”で、史跡を示す石碑も建っています。

 

 右手には“斯文(しぶん)会館”という公益財団法人斯文会の事務局の入る建物があります。斯文会は関東大震災で焼失した湯島聖堂を再建し、国からその管理を委託されている財団で、創始者は岩倉具視(いわくらともみ)だそうです。この扉は通用口のようで、玄関は仰高門の並びにありました。

 

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 仰高門を入った正面のひときわ伸びやかな大木は“楷樹(かいのき)”だそうです。案内板によると、楷(かい)は中国山東省(さんとうしょう)曲阜(きょくふ)市にある孔子の墓所に植えられている木で、日本に渡来したのは1915(大正4)年、曲阜より種子を持ち帰り、東京目黒の農商務省林業試験場で苗に仕立てたのが最初で、この木もその苗から育てられたものだそうです。枝葉が整然としていることから、書道の“楷書(かいしょ)”の語源にもなったといわれる木だそうです。

 

 楷樹の右手には高さ約4.5mもある大きな孔子の銅像が立っています。1975(昭和50)年、中華民国台北市のライオンズクラブより寄贈されたというこの像は、孔子像としては世界最大のものだそうです。

 

 聖堂を囲むのは、土塀の間に瓦を練り込んだ美しい“練塀(ねりべい)”です。

 

 桜にしては少し早いと思ったら、杏(あんず)の花ですってラブラブ

 

 石段を数段上ると、聖堂への入口の“入徳門(にゅうとくもん)”があります。

 

 帰宅後調べると「入徳門」の名は、四書(ししょ)の中の『大学(だいがく)』を、北宋(ほくそう)の儒学者二程(にてい)が「大学は孔氏(孔子とその門下)の遺書にして、初学の徳に入る門なり」と称したことに由来するそうです。

 

 入徳門からは左右に板塀が伸び、

 

 門を入ったところの広場の片隅には手水舎のような“水屋”があるのですが、縄が張られて今は使われておらず、文化財として保存されているようでした。

 

 湯島聖堂は、孔子の教えである儒学(じゅがく)を重んじた五代将軍徳川綱吉(つなよし)により1690(元禄3)年、この地に創建された孔子を祀る廟所(びょうしょ)と、儒学の中でもとくに朱子学(しゅしがく)を教え広めるための学問所の総称で、綱吉はここで自ら『論語』の講釈を行うなど大いに学問を奨励したといわれています。

 

 孔子廟(こうしびょう)へ入る重厚な“杏壇門(きょうだんもん)”。調べると杏壇とは、孔子が学問を講じた壇の周りに杏(あんず)の木があったことに因むそうです。

 

 屋根には金の鯱(しゃちほこ)ならぬ“鬼口頭(きぎんとう)”と呼ばれる珍しい神魚が載り、高く突き出ているのは潮を吹く様子だそうです。奈良の大仏殿などの上に載る鴟尾(しび)と同じく、防火や防水、魔除けの役を果たすものかと思います。

 

 正面が孔子を祀る“大成殿(たいせいでん)”で、この日は扉が固く閉ざされていますが、土日祝日は内部拝観ができるそうです。

 

 七代将軍家斉(いえなり)の治世の1797(寛政9)年には、ここに徳川幕府直轄の教学機関である“昌平坂(しょうへいざか)学問所”が開設されたので、湯島聖堂は日本の学校教育発祥の地とされているそうです。ライフワークの韓国語の勉強をこれからも一心に続けてゆけますよう、こころを込めて孔子さまに拝礼しました。

 

 大成殿の左右には孔子廟を囲む廻廊が巡らされ、

 

 その一画に足利学校(栃木県足利市)にもあった“宥坐之器(ゆうざのき)”が置かれています。何も入っていない器は傾いていて、そこに水を入れると少しずつ直立し水平になりますが、入れ過ぎると瞬く間にひっくり返り中の水は全部零れるという仕組みで、「虚なれば傾き、中なればすなわち正しく、満つれば覆る」という孔子の“中庸(ちゅうよう)の教え”を視覚的、経験的に知らしめてくれるものです。

 

 湯島聖堂はやはり合格祈願や学問成就の祈願も多いようで、たくさんの絵馬が捧げられていました。

 

 斯文(しぶん)会館に戻り、御朱印をいただきます。案内図によるとこの奥に“神農廟(しんのうびょう)”というお堂もあるようですが、立入禁止で入れませんでした。

 

 この日いただいた神田明神(左)と湯島聖堂(右)の御朱印。湯島聖堂の御朱印に記されている“萬世師表(ばんせいしひょう)”とは「永遠に人びとの模範を示す師」という意味で、儒教の教えを開いた孔子を讃えることばだそうです。

 

 湯島聖堂を出て神田川に架かる聖橋(ひじりばし)を渡っていると、

 

 ちょうどJR御茶ノ水駅を通過する真っ赤な地下鉄丸ノ内線と、奥の橋からJR総武線が入線してくるのが見えました。聖橋って、たしか湯島聖堂と神田駿河台のニコライ堂(東京都千代田区)という二つの聖堂を結ぶ橋という意味で名づけられたというエピソードを聞いたことがあります。神田駿河台はわたしにとって、大学入学前の浪人生活を支えてくれた予備校のある懐かしい場所・・・。ということでこの後は、久しぶりに神田の古書街へ繰り出して、ちょうど開催されていた“春の古本まつり”を夫とふたり、日の暮れるのも忘れて堪能しましたとさ。(おしまい)

 

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