元首相安倍晋三の国葬に関して、政権及びその支持者と反対者の間で意見がぶつかり、いくつかのマスメディアがそれぞれアンケート調査を実施したところそのいずれにおいても「反対が賛成を上回る」状況になっている今日この頃。
私自身は「国葬が元来持っていた意味」から考えて、また生前の彼のあまりにも多い疑獄事件疑惑から考えると、国葬対象として取り扱うべきではないというのが私見。
それはそれとして、それ以外に気になるのが、「国葬にするべき」「弔意を示せ」と声高に叫ぶ人たちが、心底本心から「故人を悼んでいるのか」ということ。
私個人は、疑惑についての自白と、疑惑が事実なら国と国民に対して罪をすべて償って欲しかったというのが本音で、特に彼の狂死は望んでおらず、さりとて過剰にその死を悼むわけでもなく...という、実は「心理的に過熱していない」のが正直なところです。
そんな「特に故人を深く悼んでいるわけではない」私でも、どうにも違和感を感じるのが、「国葬にするための理屈付け」「弔意は強制しないと言いながら、その裏にべっとり張り付いた”無言の圧迫”」等々......。
「仮にも人が、それも最も長く首相を務めた教祖様が亡くなったのだから悼まわないわけがないよな?」と、「本心からの弔意」ではなく「弔意をちらつかせることを踏み絵にしているかのような政治利用」が感じられるんですよね。
人によっては本当に悼んでるかたももちろんいらっしゃると思いますが、その一方で「心から悼むことそのものよりも、形式だけに過剰にこだわり他者に激昂するさまをあえて誇示する一部の人たち」の様子は、まるで「弔意を過剰に示すことで、何かに没入しようとしているのか、何かの力から仲間はずれにされないように必死なのか」と......うがった見方をするとそんな風に思えてしまったりもします。
一歩も二歩も引いた構図で、「過熱している陣営」をいろんな方向から確認しているような視点を維持しているから、そのように見えるのかもしれません。