アブナイ宗教学 ⑯ 救われたい ー 拠り所を求めて 1  | 日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

いわゆる宗教に走る人、信仰を持つようになった方の入信の契機は「病」、「貧しさ」、「争い」からだとか。もう少し高尚(?)なものですと、人生に迷い、あるいは迷わなくとも、心の拠り所を求めてということではないかと思います。

 

 

よく言われることに「幸せというものは失ってみて初めて知る」というものがあります。例えば病気になった時、当たり前のように健康でいられることがいかに幸せであったのかということを実感するもの。

 

あっし自身、何度かの入院手術、そして長期療養生活を強いられ、病院の窓から遠くに見える山々を眺めながら、ごく当たり前に歩き回り好きなものを食べていた時間がいかに貴重なものであったかを痛感したものです。

 

禅の教えではないですが、ただ普通に生きていられて、飢えることもないということはありがたいことであり感謝すべきことなのであります。それ以上のことを求めるのは贅沢なのかもしれない。まして、「生きている」というよりも「生かされている」というべきではないのか?

 

 

だから、禅修行におきましては食前に「自分はこの飯を食う資格があるのか?」なんて自問自答しなくてはいけません。

 

 

 

 

 

世の中には一生懸命働いても、まともに飯も食えない人々もいるのに、まずもってそんな苦労も知らず「まずい」とか「こんなもの食えるか」などと偉そうなことを言っているが、そもそも、さして世の中の役にも立っていないようなお前に、この飯を食う資格があるのか?

そこんところはどーなんだ?

 

 

 

 

すいませんすいませんと、あっしなんぞは恐縮しまくりです。

 

 

さて、そんな、ごく当たり前と思っていた何気ない日常的な幸せが崩れてしまうことだってままあります。

 

よく、「何で自分だけこんな目に遭うのだ。自分が兄をしたというのだ」なんて愚痴る方もおりますが、人間なんてもなー大なり小なり不幸な目に遭っていたり、不幸の真っただ中にいるものです。

 

 

釈迦は人間の苦しみをまず、生、老、病、死の四苦として捉え、続いて、愛する者と別れること、憎み合うこと、求めるものが得られない、心や身体が自由にならないというものも加えて八苦としました。これが四苦八苦ですねえ。

 

 

生れたばかりの赤ちゃんが泣くのは、この世に生まれてきたことを嘆き悲しんでいるのだときいたことがあります、まあ確かに長い人生を生きておりますと、生きることがしんどい、とおもうことがままあります。老いもまた痛切なものですねえ。これに病気があって、最後は死です。

 

しかし、この死は、あくまで生きている時に思う苦しみであって、死んだ当人にすれば、そんな苦しみからは自由になれるはずです。それとも、地獄での責め苦が待っているのか?心に疚しいことがおありの方はお気を付けを・・・。

 

 

 

 

 

そう言っている、お前だ、お前!

 

 

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 

 

 

愛するものと別れる。身内や可愛がっていたペットの死。あるいは、いろんな事情で分かれるカップルもいるでしょう。

 

憎み合うと言っても、これ、愛情の裏返しということもあります。

 

 

 

 

おのれ、あのクソねずみ男。こんなに尽くしたあたしを振るなんて

 

 

 

 

 

 

えー、「悪女の深情け」といいまして、悪女、ここでは不器量の方のことを言いますが、こういう方にちょっとした情けをかけるとですねえ、女性の方は感激して、いろいろと勝手にというか、一方的に尽くしてくれるようでして、然るにそんな気もあるわけではない男の方が邪険にいたしますと、これを逆恨みすることもあるとか。

 

 

続きまして、あっし自身、これこそが最も重要なものだと思っておりますが「求めても得られない」というのは辛いですねえ。

 

餓鬼地獄におきましては、目の前にある食べ物を食べようとすると皆、燃え盛る火に変ってしまうともされますが、これは辛いです。カール・ブッセの詩、『山の彼方の空遠く』じゃありませんが、手に入りそうでいて手に入らないものを追い求めるようなもの。

 

 

こと、世には美しい女性がたくさんおられますが、まずもって、その誰とも仲良くできない、まして濃厚接触など夢のまた夢というのはねえ・・・。

 

 

最後は、心や身体が自由にならないというもの。

 

 

そんな煩悩を捨て去り、清く正しく、美しくたって・・・、あーた。

 

 

 

んでも、こういった欲に囚われている限り、確かに苦しみは亡くならないでしょう。

 

 

救われる、ってこたー、やはり何かにすがらないとダメのようです。

 

我々が宗教に期待するのもこうことなんでしょうねえ。