◆陸奥国・盛岡城(不来方城) 腰曲輪跡/国指定史跡◆ | ★千代と限らじ仙臺の松★ ~We are feelin' love together~ 

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※2024年3月29日訪問※


本丸の南側には【腰曲輪】が広がっていました音譜


【腰曲輪】の石碑が建てられていますね✨

【腰曲輪の建物】と書かれた案内板が設置されていたので確認していきましょう✨


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腰曲輪とは、城の守りを堅くするために主要な曲輪の周囲に配された細長い曲輪のことで、盛岡城では本丸の東・南・西の三方を囲む一段低い区画となっています。

曲輪の東辺には二ヶ所の折邪があり、それぞれ櫓が備えられていました。

そのうち、北側の櫓は単層で、南側の櫓は二層となっており、お互いの櫓は武者走りにより連結されていました。

この二層の櫓については、発掘調査の結果、櫓の規模が拡張されており、建替があったことがわかりました。

そのほか、東側北辺の一段低い所には石組の井戸が現存しています。

南西部には喰い違いの虎口と「吹上門」があったほか、吹上門の側には単層の櫓が建てられていました。

曲輪内部の南東側には「御宝蔵」、本丸南辺の石垣下には「馬場」があり、さらに東側には南部信直・利直父子を祀る「櫻山御宮」がありました。

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【腰曲輪の遺構変遷】という案内板も建てられていますね✨


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石垣修理に伴っておこなわれた発掘調査の結果、腰曲輪の構造が大きく4期にわたって変化していることがわかりました。

①不来方城期(15~16世紀)
盛岡城築城以前の福士氏の居城であった時期で、斜面に空堀、土塁などが階段状に設けられ、本丸の周囲を廻っていました。

②盛岡城1期(16世紀終末)
南部氏における築城が開始された時期で、本丸や二ノ丸などには石垣が築かれましたが、腰曲輪は土手のままで、周囲に柵が廻っていました。

③盛岡城2期(17世紀前半)
腰曲輪の南側と東側、北東側に石垣が築かれます。この時期の腰曲輪の南側は、現状の平坦面よりも2mほど低い窪地になっていました。

④盛岡城3~5期(17世紀後半)
腰曲輪西側にも石垣が構築されたほか、南側の窪地はしだいに埋め立てられ、江戸時代末期(19世紀前半)には、現状のような平坦な地形になりました。

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現在では平場となっている腰曲輪も、時代と共に、様々な変遷をたどっていたのですね✨


◆陸奥国・盛岡城(不来方城) 二重隅櫓(南東大櫓)跡/国指定史跡◆に続く