◆下総国・猪鼻城(亥鼻城・千葉城) 主郭跡/千葉市指定史跡◆② | ★千代と限らじ仙臺の松★ ~We are feelin' love together~ 

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※2023年9月23日訪問※


引き続き【主郭跡】を散策して行きます音譜


こちらの高まりは【土塁】と推測されています✨



【千葉氏ゆかりの地 猪鼻城跡】という案内板が建てられており、案内板には城跡の地図も掲載されているので、散策の際の参考にさせて頂きました✨


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猪鼻城はかつて鎌倉時代以来の千葉氏の城とされていました。

平常兼の子常重が大治元年(1126)、上総国大椎(千葉市緑区)から千葉に本拠を移し、千葉常重と称しました。

常重の子・常胤は源頼朝を助け鎌倉幕府の創設に大きく貢献し、その功績で北は東北地方から南は九州地方まで多くの所領を得ました。 

ところが、猪鼻城跡で行われた発掘調査では、鎌倉時代の城や館の跡は見つかっていません。

ここにあった城は、室町時代後期(戦国時代)に千葉氏の有力家臣にあたる源氏により城郭として整備されたものという説が有力で、火葬骨を納めた13世紀の壺が発見されたことから、それ以前は墓所であったと考えられています。 

郷土博物館西側の公園内を見回すと周囲が少し高くなっています。
これは土塁のあとです。

外からの攻撃をくい止めるために、城内部の平地周辺に土を盛り上げて高くしていました。

その内側の郭と呼ばれた一画は城の中心で、江戸時代に本丸と呼ばれた場所にあたります。

北にある神明社のあたりは物見台の跡だと言われています。

そこからはかつて東京湾の海岸線や、足元にあった千葉の港を一望することができました。

本丸と物見台の跡との間が低くなっていますが、これは防衛手段の一つとして設けられた空堀(水のない堀)の跡です。 

では、千葉氏が館としていた場所は実際にどこであったのでしょうか。

かつての方形の堀・土塁に囲まれて『御殿跡』と呼ばれた現千葉地方裁判所のあたりではないかという説があります。

康正元年(1455)、一族の馬加康胤・原胤房が宗家の千葉胤直を攻め滅ぼした後、千葉氏が本拠地を本佐倉(酒々井町・佐倉市)に移したことや、遺構や決定的な史料が見つかっていないこともあり、現在も千葉氏の館の場所は明確になっていません。 

千葉市教育委員会

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◆下総国・猪鼻城(亥鼻城・千葉城) 千葉市立郷土博物館/千葉市指定史跡◆に続く