平安時代の人たちは、月をどのように見ていたのでしょうか。古今和歌集の大江千里の短歌から見てみたいと思います。
月見れば 千々にものこそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど
月を見ると限りなく身にしみてしみじみと心打たれてもの悲しくなる。私独りだけの秋ではないのだけれど。
平安時代の言葉は、現代の私たちが持っている意味と全く異なっていたり、微妙にずれていることがあります。例えば、清少納言の枕草子で「おかし」という表現が出てきますが、この言葉は多くの意味を持っており、「しみじみと感じる。趣がある。」という意味です。滑稽だ、面白いという意味に変わるのは江戸時代のことです。
千里の歌で鍵になる言葉は、「悲しけれ」でしょう。これを文字通り「悲しい」ととるか。この語はもともと何か対象があって真情が痛切にせまってはげしく心が揺さぶられる様子を表す言葉です。つまり、悲哀にも愛憐にも使います。前者ならなげかわしい、いたましいという意味を持ちます。後者ならしみじみと心を打たれるという意味になります。さらに男女の間で切ない愛情を表す言葉でもあり、この場合は、身にしみていとおしい、かわいくてたまらないという意味でしょう。
大江千里は中古三十六歌仙の一人で漢学に通じていました。この歌は、白居易の燕子楼をモチーフにして詠んだといわれています。
滿窗明月滿簾霜
被冷燈殘払臥床
燕子樓中霜月夜
秋來只爲一人長
窓いっぱいに輝く月、簾いちめんに降りた霜。掛けた布は冷たく、灯火は臥所を薄く照らしている。燕子楼の中で過ごす霜のように冴えた月の夜は、秋が来てただ私ひとりのために長い。
この七言絶句は白居易の知人であった張さんと死別した妻が終生独身を通した思いを綴った歌です。霜のように清かに輝く月の光、臥所を照らす灯火、冷たい掛布、長い夜。どこにも妻の想いは描かれていません。白居易はこの風景を通して、かけがえのない愛する人を亡くした空虚さ、底知れぬ孤独感を詠ったのでしょう。
この世界、楽しいことや嬉しいこと、悲しいことや苦しいこと、様々なことが起こります。そんな浮き沈みのある常に変化する世界に生きて、月の光は人々に様々な想いを抱かせてきたのでしょう。時には慰めになることもあれば、時には悲しみを強くしてしまうことも。夜の闇と静謐の中に身を置いて、山の端に昇る月を見れば、今までになかった新しい自分を見つけることもあるかも。明日は今月二回目の満月、ブルームーンが見えます。今夜はブルームーンイヴです。世の中ハロウィーンの真っ最中でしょうけど、こんな過ごし方もいいと思います。

