拙記事「映画『利休にたずねよ』の嘘を暴く」では厖大な方々に閲覧していただきありがとうございます。あちらの記事は、幾度かの追記や改訂などを経て、あともう少し切腹のことについての事実をしっていただきたいとは思いますが、それであちらの記事は終わりにしたいと思っています。

 こちらの記事は、そういうことではない、感想を述べさせていただければと思います。


【利休像のズレ・茶道へのスタンスのブレ】
 全編を通して感じられることは、利休像が原作者と演出家、脚本家の中で「摺りあわされていない」ような感じがしました。
 信長(伊勢谷友介)との絡みの中で「(天下の)美は私が決めまする」という台詞があるのに対して、秀吉(大森南朋)との絡みでは「一介の茶の湯の者」と卑下します。私としては、この卑下感は、要らなかった……と。これは信長と秀吉を対比し、秀吉を貶めるための演出なのではないか?と思いますね。

 確かに秀吉は金が好きで、派手好、雅好、唐物数奇ではありましたが、芸術性を理解できない人物ではなかったハズです。自分の好みとは違っても容れる度量があったからこそ、大阪城の黒塗壁や、黄金の茶室の幽玄、小田原征伐の際の山中の市居(竹垣の茶室)の演出などに驚いても褒めています。

 また、信長の名物狩りのシーンで蒔絵文箱の蓋に水を注いで月を見せる演出などは「あざとすぎる」感があります。映画としては利休の奇抜さを演出したかったのでしょうし、映像としては和の美を演出したかったのでしょう。しかし、日本では古くから水面に写る「月影」を愛でる風習があり、それを切り取った利休の機転の素晴らしさを謳ったつもりでるとは解りますが、私には、漫画『へうげもの』で利休が火薬を献上したことの方が(これは本能寺の変の伏線になっていますが)、合理の塊であった利休らしさが如実に表れていると思います。つまり、信長の名物
狩りにはきちんと名物を差し出したと思えるのです。

 利休の茶の道具に対する考え方は、どちらかというと「包含して廃する」という方向性であり、その極致が「黒楽」であったと思えます。赤楽については黒楽の前の過程としての作品でありながらも、その「洗朱のような鮮やかな赤」がそれまでにないものとして取り上げられたと考えられます。この過程こそ利休の中に「包含して廃する」という合理性が表れているのに対し、蒔絵の演出は、「雅」な雰囲気があり「道具の披露に景色を容れたという型破り」さを表現しているだけに過ぎず「利休の凄み」が半減しているように感じました。利休ならば、ただの黒い蒔絵文箱の蓋を返して、信長に見せ「ここに月があると心で見るのです」とでも言ったのではないでしょうか。「無いからこそ、有る」という人の想像力の限界のなさを表現し、自然との調和を人工的にではなく、心で演出するのが利休ではないでしょうか。


【心中しなかった利休】
 作品の演出として、高麗姫を武野紹鴎が仕入(朝鮮で拉致されたものを買い取った)たという設定になっていますが(さる方から依頼があってそれを紹鴎が仕入れたということになっている)、その女性とのラブストーリーが後半の主題である。これを利休の美の根源としたということなのですが、私には少々解せませんでした。

 心中も一緒にできなかった利休にとって、その女性がそれほど鮮烈に、利休へ美を残したとは思えないのです。

 ここで、利休がともに服毒し、紹鴎の門人や使用人に助けられ、「一人だけ生き残ってしまった」という罪悪感を抱きながらも、件の琉球人に「それは『あなたは生きて』という意味だ」と告げられたのだとしたら、まだそこが原点であったと言われても「物語としては強い印象を残せたであろう」と思えます。かなり底が浅い感じが否めませんでした。

 結果として単なる「女好きの情けない男」でしかなく、非常に残念な感じがいたしました。
 演技はまぁ、そこそこでしたし、頑張っていました。この映画がヒットしない理由は、海老蔵の力不足ではない……と思います。

 ただし、そのシーンに出ていた黄瀬戸(黄瀬戸茶碗「難波」向付はなれ 鈍翁旧蔵)は思わず魅入ってしまうほどでした。逆に言えば、このシーン、黄瀬戸の美しさすばらしさには敵わないシーンだったと思います。

【海老蔵の所作】
 立居振舞はさすがでした。
 が、茶道の手としてはいささか不自然というか、指摘しなかったのでしょうか。
 茶盌の中に指がぐっと入っているのはどうなんでしょう。
 薄茶で、茶杓を二度打ちするのも「????」と思いました。
 表千家(ご宗家)ではそのように教えられるのでしょうか(私は少なくとも見たことはないです)。←ご宗家は薄茶・濃茶ともに二度打ちだそうです(おほにゃんさんありがとうございます)。
 所作がすばらしい!と絶賛する方もいますが、どうにもねぇ……。
 一年で、ここまでできるようになったのはすごいと思いますが、帛紗捌きも変でしたし……。


 原作をしらない私ですので、原作との比較はしてみたいものではありますが、いやはや、これは1800円の価値があるか……と言われると「道具を観るための映画としての価値はあるが、物語はお粗末な限り。海老蔵と團十郎の親子共演を観るためだけの作品でしかない」という評価ですね。

 酷評ではありますが、1800円の価値があるかどうかならば、道具観賞としてのみ有ります。
 ただし、映画としては★☆☆☆☆です。