永遠の未完成を奏でる 天籟の風 ameblo 版
 
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『永遠の未完成を奏でる 天籟の風』


  • 06Sep
    • subject シリーズ

      《amebloへの転載が億劫になってしまい更新が滞っていますが、「subject シリーズ」を書いています。》subject(1)―序アイデンティティから続くこのシリーズですが、当初の予定では「自我について」が次のテーマでした。しかし7月一か月間の自己内議論と突如の閃きによって自我問題は矮小化されました。小さな問題になったということです。それよりも大きなテーマとして【 subject 】を掲げ、その一部として自我をどこかで扱います。subject は哲学では「主体」「主観」と和訳されますが、いずれも明治以前の日本には無かった概念です。「主語」という概念もありませんでした。なぜ無かったのかについては、subject シリーズの後に、純日本思想を深く掘り下げる予定です。テーマ名を「主体」や「主観」にしなかったのは、どちらの和訳語も、歴史上多義的に使用されてきた subject の語感には相応しくない、誤解を招きやすいとの判断からです。次の記事からは本格的に西洋哲学の根幹ともいえる、或いは西洋哲学の中核として推移してきた subject 概念の変容の歴史とその構造(ロジック)について書いてみます。subject – object の対立軸も当然含みますが、西洋哲学の基本は subject に集約されると思います。最終章では、西洋文明が subject を失うことができなかったために混沌となった西洋哲学の陥穽(※かんせい…おとしあな)を指摘したい。これは西洋だけの問題ではなく現代日本人の問題でもあります。明治以降の教育によって西洋文化的な視座が中心となってしまい、戦後教育を受けた現代日本人は特に、subject を前提とした先入見で考えるようになってしまっているという現状がある。もちろん、subject 概念を取り入れて考察できるようになったことは、日本人にとって大きな進歩でした。しかし、subject 概念をもたなかった日本文化を捨ててしまうことはない。かたくなに一つの真理を求めようとするのではなく、一元原理主義に固執するのではなく、柔軟に、しなやかに、多元原理の不安定さのなかで認識し、解釈し、考察してゆくことは楽ではありませんが、知的能力を向上させます。当然です。あらためて純日本文化の subject 抜きの視座シリーズで触れますが、哲学者の西田幾多郎の次の言説は有名です。ここではそのさわりだけ。 私は日本文化の特色と云ふのは、主体から環境へと云ふ方向に於いて何処までも自己自身を否定して物となる、物となって見、物となって行ふにあるのではないかと思ふ。己を空うして物を見る、自己が物の中に没する、無心とか自然法爾とか云ふことが、我々日本人の強い憧憬の境地であると思ふ。(『日本文化の問題』)西田は徐々に仏教へと傾倒してゆきましたので「自然法爾」という仏教用語が飛び出していますが、淵源へと辿って行けば、国学者の本居宣長による「もののあはれ」の思想がある。宣長の思想というよりも連綿と継承されてきた日本独自の、自己が大自然の中に溶け込み一体化していたことが、ごく一般の日本人の感覚だったのではないかということです。重ねて書きますが、純日本文化を復興させてという考えは私にはありません。西洋と日本に限らず、「常に自由なブレンド」によって新しい価値観の“ブランド”を創造してゆくという、野心的企てがメインテーマです。そのためにも西洋哲学の subject をしっかり押さえておきます。subject(2)―ギリシア哲学 へ

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  • 08Aug
    • アイデンティティ(3)

      SNSの「いいね!」やポジティブコメントをもらうことは、通常、エイブラハム・マズローの承認欲求の文脈で語られる。返報性の原理(お返しをする)も混じるがこれは横に措くとして。本記事ではアイデンティティの文脈で共感や同感について考えてみたいと思う。共感という言葉は主に感情面・感性面に使われるが、「彼の生きかたに共感を覚える」などにも使われる。一方同感は主に意見に対しての同意など知性・理性的な価値観に対して使われる。どちらについても、承認欲求の文脈でも同一性の文脈でも大差はないのでここでは「共感」で統一しておく。共感については自我と他我の関係性による社会倫理を中心に、哲学でも扱われてきた。共感 〔英〕sympathy 倫理学上の重要概念の一つ。ギリシア語のシュンパテイア(共に感じる、共に苦しむ)が原語で、一般に仲間意識を持つという意味で用いられてきた。現在では同情・憐憫・同胞感情という意味でも用いられている。(社会科学の用語としては〈同感〉という訳語が用いられている。) 共感は人間の自然的情緒であり、人間社会の基礎である近親感情や友交を生み出すものである。人間はその生存において他者に依存せざるを得ぬため、生活のごく初期から他者の動作や表情の意味を解釈することを学ぶ。これが共感の第一歩でありマクドゥガルはこれを〈原初的受動的共感〉と呼んでいる。これは次第により高度の他者の感情の意識的な評価へと発展し、やがて彼の属する社会集団の道徳的伝統の受容に至るのである。 (略) 【ヒューム】 人間は他者の行為を観察し、自己の経験と想像力によってその行為の動機である感情を感知する。この他者の感情の観念は自我のうちで次第に強まり、彼自身の印象へと転化していくのである。(…)共感は道徳的判断に際し、利己的な判断に対する被害者および第三者の非難の感情を知覚し、次第に理性に類似した穏やかにして強力な情念へと転化し、大きな変動を許さぬ公正な判断基準となっていく。 【スミス】 他者の情念に対する直接的な共感から生じる適宜性の感が人間を道徳的行為へと指向させる。社会を存続させるために最も重要な道徳は正義であると主張し、相互に傷つけ権利を侵害しようとしている人々の間においては社会は解体するのであり、人間相互の共感によってのみ支えられると考えた。 【カント】 人間の他者に対する共感的感情(感受性)は、人間本性のうちに植え込まれているものと考えていた。彼はこうした感受性を積極的な合理的な仁愛を促進する手段として用いることは人間の義務に属するものと信じていた。 【シェーラー】 共感とは通常「共歓および共苦と呼ばれる過程」、つまり他者と共に喜び、共に苦しむ体験、その限りでまた、われわれにとって他者の諸体験が直接に理解されるように見え、その諸体験にわれわれが直接に〈参与〉するような過程のことである。こうした共感は、一方では〈追感得〉、つまり感情移入から区別され、また他方では単なる一体感とも区別される。直観的にいえば、死児を前にした父母の悲痛の共有、そこに見られる〈相互感得〉が、その典型的な場面の一つであるともいえよう。 (『岩波哲学思想事典』p338) 共感という、理性的および情緒的な心のはたらきが、人間にとって非常に重要であることがわかる。哲学者たちの考察を深く真摯に捉えるならば、SNSの「いいね!」を単なる承認欲求として単純に語れなくなってくる。上記事典からの引用では、共感が社会を前提としていることがわかる。これを私は、同一性の文脈で、自己内の同一性への統合欲求が、自己と他者の関係へと延長したものとして共感をとらえてみたい。他者との一部同一化を図りたい、その欲求は、自己のアイデンティティの確立を強固にし、安定させることを動機とすると考える。自分と同じように感じ考える他者がいることの確認によって心理的に安心し、自身の正当性を認識できる。同一性の欲求が共感されたい側にあれば、感情的に自分の心に寄り添ってくれる人がいて、理性的に自分の意見への理解を示し、肯定してもらえる人がいれば心強いに違いない。同一性の欲求が共感したい側にあれば、寄り添いたい仁愛の情は自身の幸福感情の一つと成り得る。理性的に尊敬できる共感相手はロールモデルとなって、それが一時的なものであれ、自分の成長に繋がる早道であることを無意識内の賢者は知っている。歴史上の人物でも良いし何人いてもいい。また、同一性は属性への同一性という意味もある。社会生活を営む人間にとって、集合体や共同体(例えば国家や宗教団体なども含む)の理念や考え方に共感することは、心の内面に於いて同一性が図られるということであり、アイデンティティの確立に繋がり、社会での自分の存在価値を認識できる。もし逆に同一性への欲求がありながらそれをことごとく撥ねつけられ、誰からも一切の共感を得られないとしたら、aloneのほうの(solitudeではなく)孤独感に苛まれ「小人閑居し不善を為す」のことわざの如く反社会的犯罪行為に走る可能性もある。福岡のブロガー事件の犯人がまさにこれだろう。共感と同一性の関係についてはこの程度の論考で済むはずもなく、更に考察を深化させ、また新たなロジックを創ってみたい。自己と他者の同一性については、行き過ぎた同一化への欲求によっての他者人格の“所有化”や精神を病んでしまうケースもある。精神医学者として臨床医でもあり心理学者でもあったユングは次のように述べている。 同一性とは何よりも客体と無意識的に同じ状態にあることである。(略)この同一性に基づいて素朴な偏見が、すなわちある人の心理が外の人のそれと同じであるとか、誰でも同じ動機を持っているとか、自分の気に入るものは当然他人にも満足のゆくものであるとか、自分にとって非道徳的なことは他人にとっても非道徳的であるに違いない、といった偏見が生ずる。 また、本来自分自身が変えるべきことを他人に改めさせようとする、よく見られる熱意も同一性に基づいている。さらに暗示や心理的感染も同一性に基づいている。同一性がとくにはっきり姿を現すのは病理的な場合であり、たとえば自らの主観的内容が当然他人にもあると決めてかかる偏執症的関係妄想(パラノイア)がそうである。 (C.G.ユング『タイプ論』p471)共感、或いは同一性は素晴らしいものではあるが、一方では、大きなデメリットもあるということです。共感性が強い人、共感や同感についての意識が高い人はついつい「自分の体験的なものは誰にも当てはまる」「自分が正当と認めたものは誰にとっても正当」と考えがちになるし、他者の経験の独立性、価値観や感情の独立性について考えが及ばないことがあります。また、何らかの集合体や共同体への同一性に過度に共感し依存するようになれば、自立性と自律性が損なわれ視野が狭くなってしまいます。他方、共感や同感について意識の低い人は(私がそうであると思う)、共感することの良い点を評価し直すべきだと思いました。しかしシンパシーを感じる相手は少ないですし、例えばここにこうして書いた主旨についての理解は多くの人にとって困難でしょうし、私にシンパシーを感じてくれる人もごく少数のマイノリティーだと思うので、なかなか難しいのですが。

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  • 05Aug
    • アイデンティティ(2)

      久しぶりの記事になります。一ヶ月もあいだを空けたのは初めてのこと。今書いているテーマについて考えていなかったわけではなく、むしろ、相当量の読書によるインプットが止まらなくなり頭は高速で回り続けていました。途中で大きな閃きもあってそのロジックの建設に関心が向いてしまっていたのでした。お蔭さまで次に予定していたテーマ「自我問題」については、ほぼ解決できたかもしれません。7月一ヶ月間で構築した新しいロジック「基礎哲学論と視座構造」(仮称)については、このブログ形式ではなく、保存版として「哲学・思想」コンテンツのなかに書いていく予定です。但し、どんどん上書きされて更にこのロジックは進化してゆくので、完成形にはならず永遠の未完成作品となります。人生の苦悩の克服、みずみずしい「生」の視座のつくりかたなど、リアルに応用できることも多いのではないかと思っています。さて、アイデンティティももちろん上記のロジックに関係してくるのですが、これがまた難しい。なぜ人間には「同一性」が自然にはたらくようになっているのか、その原理に嵌る価値と欲求のピースを探しているところです。アイデンティティは「同一性」と邦訳されますが、まずは心理学的なアイデンティティではなく、哲学としての「同一性の基準」の解決を図る。同一性 〔英〕identity 【同一性の基準】 何をもって「一つの」個体とするかが明確である限り、同一性関係は、すべての個体が自身に対してのみもつ関係として、単純明瞭である。しかし、個体は、一般に、何らかの種類に属するとみなされ、何をもってその種類に属する一つの個体であるかの基準は異なる。同一性をめぐる哲学的問題の多くは、こうした同一性の基準に関するものである。とりわけ、時間的に持続して存在する個体に関する同一性の基準を、どう定式化するか(時間を通じての個体の同一性)という問題は、哲学的問題の主要な一角を形成してきた。物体の時間を通じての同一性には、時空的連続性が十分条件となるのか、それとも、必要条件にすぎないのか、さらには、必要条件ですらないのか。人の時間を通じての同一性(これは、しばしば「人格の同一性 personal identity 」と呼ばれる)のための条件は何か、身体の時空的連続性か、それとも、記憶の連続性か。ここで強調しておきたいことは、これらの問題は、同一性という関係そのものに関わるものというよりは、「物体」や「人」といった概念に関わる問題であることである。 (『岩波哲学思想事典』p1151)哲学は常に「普遍的な真理」「一つの真理」を求めてきた。時間を通じての個体の同一性の基準は普遍性のある一つの真理でなくてはならない、という西洋的な白黒デジタル判断を要求される。しかしその上位観念において、つまりメタ的視座において二つの真理の矛盾を容認し、「メタ的視座において一つのロジック」とすれば良いと私は考える。これについては前の記事の文末で少し触れた。ところで、私たちが、10年前や子どもの頃の自分と今の自分と同一である、とするのは、まず「何が」同一であると言えるのか。変わっていないモノとは何かである。身体は変化しているだろうし、人生体験によって価値観も変わっているだろう。記憶だって変わっている。場合によっては記憶は改ざんされている。心の状態だって変わっていると言ってよいだろう。では変わっていないモノとは何か。それは「認識する基体」である。純粋な「基体」である。価値観や記憶などを内蔵する「コアの主体」は変容してゆくが、その「コアの主体」を無意識下に押しとどめた純粋に認識する基体がある。例えば、この基体が純粋認識を行う場合の自分の年齢について言えば、10歳の自分と20歳の自分と今の自分を比較した、時間軸における自分自身の過去と区別がつかない。私は誕生日にいろいろな人から「〇〇歳の誕生日おめでとう」というふうなメッセージを受け取るが、その際に、え?何も変わってないのに、という不思議な感覚に襲われる。この瞬間に「コアの主体」は忘れ去られているのだ。言い換えれば「コアの主体」である私はその視座(視覚的視座ではなく意味的世界の視座)に存在しない。よって、自分自身による時間連続性におけるアイデンティティの確認は、記憶の連続性によるものでも、身体の時空連続性によるものでもない。純粋認識する基体によってア・プリオリな同一性を認めている。では、他者の同一性を確認する場合はどうか。その人を過去のその人と同一と認めるのは、〈私の〉記憶の連続性によるものか、それとも〈その人の〉身体的連続性の存在を〈私が〉認めたことによるものか。これは、前者は私の内部の観念に視座をおいた観察であり、後者は私の外部の実在を観察する視座によるもので、自分では無自覚のうちに、その二つの視座を行ったり来たりしながら確認していると考える。「モノ」の同一性も同様である。ここまでの「純粋認識する基体の視座」と、「観念論的視座」、「実在論的視座」の三つの視座については、冒頭に書いた「基礎哲学論と視座構造」(仮称)という新しい試論のロジックのなかで詳述する。哲学的な「個人の同一性」の認知と基準については、現状、以上で解決とします。問題は、心理学的に、第四のメタ的視座で俯瞰した場合、なぜ三つの視座の同一化が無自覚に行われるのか、そのダイナミズムは一体どうなっているのかということです。認知症になると同一性の確認に支障をきたします。主に記憶によるものだと言われています。では、同一性の確認ができないことが普通で、できるのは何故かというふうに発想の転換を図った場合に、なぜ同一化の力学がはたらくのかについては、今のところ何の手がかりもありません。アイデンティティ(3) へ

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  • 02Aug
    • アイデンティティ(1)

      いよいよ本記事から自己の根源的テーマに入ります。前記事までは帰属の意義、所属への欲求とメリット/デメリットなどについて考えてきました。それらの課題もまだまだ十分には程遠い途上にありますが、一旦寝かせます。ここからの論考は抽象論的な「自己」の解体と再建設を考察主体とする。特に「自我」や「主観」「表象」「意識」について掘り下げることになる。まずは前記事とも関連する「アイデンティティ」について扱います。「アイデンティティの確立」といった言葉で扱われているアイデンティティの意味を、正確に説明できる人は少ないのではないかと思うわけです。成人人格の確立みたいな、なんか一人前っぽいみたいな、自立的みたいな、そんなふうなイメージをもつ人が多いのではないでしょうか。丁寧にやっていきます。心理学者のエリク・エリクソン(1902-1994)が精神医学用語としてアイデンティティという言葉を人間に付属した概念として再定義する前は、哲学用語として扱われていました。語義も似ています。アイデンティティ〔英〕identity 〔独〕Identität 〔仏〕identité 同一性、存在証明と訳される。「変化の中にあって変わらないものは何ものか」を表す。 (1)「私」ないし自我が生の経験の全体を通して同一に保たれている事実。 (2)理性の地平でルールとして同一のもの、つまり論理的普遍性としての思考。 (3)あらゆる思考の対象にそなわるA=Aという事実。 (4)認識論的に主観と客観とが合致すること。 「私」の同一性が成り立たなければ、少なくとも現行の法体系においては、契約も所有も権利も義務もその根拠を失うことになる。同一性の問題は、人格、神、世界の存立の根拠ばかりか、人々の日常的実践にも深く関わっている。 近代の国民国家も同一性の原理によって構成されている。国民、領土(国境)、主権の概念は同一律と排中律によって規定されていて、そのために国民国家は、一国語・一民族・一国家の神話に傾斜しやすい。 (中略) 哲学用語のアイデンティティを精神分析の用語に転用・再定義したのは、E.H.エリクソンである。 (1)私の斉一性と連続性、(2)他者による私の中核部分の共有・承認、という2項によって再定義した。アイデンティティとは、さまざまな私をとりまとめる、より上位の新しい「私」のことだ。彼はアイデンティティの問題は青年期に鋭く顕在化すると考えた。青年は幼年期からの自分と未来展望との間に、「自分は何者か」の自己定義と、取り替えのきかない自己の存在証明を見いだそうとする。 アイデンティティの理論は、青年期に限らず、老年期、女性、エスニシティ、障害者などへ理論的な射程を拡大してきた。これら全てのカテゴリーにおいて、「アイデンティティへの自由」と「アイデンティティからの自由」が交差している。 (『岩波哲学思想事典』)後半のエリクソンのアイデンティティ論においては特に、人間の心理状態のなかでの自分自身を「メタ認知」し、水平的には現実世界のなかで常に自分が固有の存在としての確固たる自覚をもてること、垂直的には自分の記憶の中での、過去の自分自身と現在の自分自身が確実に繋がっており、すべての過去における私は現在の私と同一の存在であることに疑いを抱かないことが挙げられます。上記引用文では、さまざまな私をメタ認知し、人格統合する私自体がアイデンティティのように書かれていますが、正確には、「メタ認知し人格統合する私の”原理”がアイデンティティである」と解釈しています。アイデンティティ(2)へ

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  • 17Jun
    • 帰属意識とアイデンティティ

      ※ホームサイトからアメブロへ転記するのが面倒になってしまい、こちらへのアップをさぼっていました。最新4記事をまとめてアップします。前の記事『帰属意識とナショナリズム』からの続きです。『HINOMARU』を歌うRADWIMPSは若者に人気のグループであるらしく、批判に対しての批判として若者の擁護が大きな声となっているようだ。ますます「近頃の若者は右傾化している」と言われるかもしれないが、反左傾が実態ではないだろうか。そしてこれは世界的傾向にある。つまり、右傾化への流れを作ったのは皮肉にも、左派メディアと左派運動家のポリティカルコレクトネスだと私は考えている。国境のない世界、男女の別の無い世界、個性だ多様性だと言いながら個性について言及すればすぐに差別だハラスメントだと批判される世界、平等は「命の価値」に留まらず何でも平等にと人間価値を画一化しようとする指向性。それが抑止力としてはたらいているうちは良かった。現代はそこを過ぎて全体主義化へ向かってしまっている。いったい「私は何者なのだ」と問う。「いや君は地球人のひとりなんだよ。なんの別もなく。」との答えには、「そうか、私は世界73億人と同じなんだ。」という、”のっぺら感”をもち、じゃあ自分は誰とも同じ者なんだとなる。親が誰でも国がどこでもどの宗教を信仰していても、そこに帰属意識も誇りも持たず「らしさ」もなく地球人としての一個人。帰属を地球人だけとするのならば、「私は何者なのだ」のなかに自分の生物としてのルーツも、自分の意思も思想も、価値も欲望も何も組み込むことができない、ロボットと同じ存在になってしまう。アイデンティティは混乱し自我喪失の危機を無意識に抱え込む。人間は「私はこれこれこういう者だ」というアイデンティティをしっかり確立しなければ精神の不安定を招く。ポリコレによって失われていくアイデンティティを呼び戻そうと、帰属意識をもてる何かに無自覚に依存しようとする心理が芽生えるのは健全かつ必然である。全世界的にうつ病が急増しているのは、ポリコレ運動によるアイデンティティの混乱と危機がその一因となっているのではないかとさえ思える。そうしたアイデンティティの混乱に最も敏感なのは若者であり(アイデンティティ確立の真っ最中)、『HINOMARU』の歌詞を肯定的に共感をもって受け止めるのは世界の趨勢からみて健全で自然な心のはたらきだと思う。アメリカ人は子どもの頃にアメリカ合衆国への忠誠を誓う。それに加えて8割以上の国民はクリスチャンとして、親に言われるまま子どもの頃にキリスト教および聖書への忠誠を誓う。二重の忠誠の誓いによって子どものアイデンティティは強固に確立されてゆく。アイデンティティという言葉を心理学に導入した心理学者エリク・エリクソンの著書『洞察と責任』のなかで彼は、「自分は何者か」というアイデンティティの確立過程における青年時の一時期、帰属意識をもてるもの(アメリカで言えば国家とキリスト教)に対し忠誠心をもち、そこから湧き上がる「尽くす心(フィデリティ)」の発達と、尽くす心を与えたり受けたりする能力を得ることが、若者の心の健康の条件のひとつであると述べている。確立の「過程」に留意すべきは言うまでもないだろう。青年時を過ぎ社会体験を深めてゆくことによって、忠誠心を踏み台にした自律と自由の意義や人間個性への省察が深まり、次の段階のアイデンティティの確立へとステップアップしてゆくのである。翻って日本の事情を顧みれば、敗戦後に「国家に忠誠を誓うこと」「天皇に忠誠を誓うこと」をアメリカによって厳に禁止され、子どもの忠誠心をはぐくむ場を取り上げられてしまった。そうした日本人をかろうじて救ったのは、現代で悪徳のように言われている「先輩や監督に忠誠を誓う」学校時代の体験や、終身雇用制による「会社等の組織への忠誠」の誓いだったのだと思う。それが日本人のアイデンティティ確立の一助となっていたのは間違いない。名刺に刷り込まれる所属団体(会社等)と肩書、役職が「自分」だった人がマジョリティを形成していたのではなかったか。妻はその夫の社会的地位を自分のアイデンティティに援用していたのではなかったか。その是非がどうのこうのではない。「自分は何者か」に迷わない、アイデンティティの確立として「役に立っていた」はずだということを言いたい。今ではその忠誠心を利用して従順にさせようとする管理職や経営者・各団体トップが跋扈している世のなかになってしまった。これほど管理職にとって楽なことはないという手法で。まことに情けない。さて、これから社会へ飛び立とうとする現代の若者に、入社したての新入社員に、アイデンティティ確立のための「尽くす心」を発達させる環境は一体どこにあるのか。この点については単に正悪の価値を決めてしまうのではなく、柔軟に考察を深めてゆくことのほうが優れた道だろうと思う。ところで、見返りを求めない尽くす心、献身の美学は、国家や天皇への忠誠心によらずとも日本文化に深く根付いていた。日本という国家に対するナショナリズムは比較的新しく生まれたもので、長きにわたった封建社会における武士の城主(藩主)に対する忠誠心がロールモデルとなって、町人や農民などの一般国民に対しては、忠誠の美学が一途(いちず)の美学と献身の美学となって浸透していったのではないかと、丸山眞男の『忠誠と反逆』を読みつつ、そう私は考えました。アメリカでは国家とキリスト教に二重の忠誠を誓うことを例として上述しましたが、イギリスでは国王に忠誠を誓います。ドイツにも忠誠宣誓があった。各国での忠誠の誓いは秩序として機能しただけでなく、対外的なプライドとして、また、アイデンティティとして個人が社会に根を張る確かな要因となった。日本では城主(藩主)に忠誠を誓う武士(奉公人)の立場は上下関係の厳しい秩序としてのみ理解されがちではありますが、実際のところ、その「忠誠を誓った自分自身」の生をまっとうするという極めて個人的な美学に貫かれていることは、丸山眞男の『忠誠と反逆』だけでなく倫理学者の相良亨など多くの先学が指摘するところであります。「忠誠の美学」というテーマは歴史的にも心理的にも奥が深い。とてもとても、一つの記事でまとめ切れるものではありませんでした。帰属意識と切っても切れない関係である忠誠心とそれに伴う美学。そして忘れてならないのは、忠誠心を転倒させた「反逆の美学」もあるのです。考察を今後も続けます。次の記事では本記事の続きとして『アイデンティティ』を予定しています。

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    • 帰属意識とナショナリズム

      『HINOMARU』の歌詞が注目を集めている。批判することも擁護することも歌詞内容に同感することも、議論となることについて言えば国民意識は健全というべきだろう。そのほとんどがナショナリズムに直結させての考察であり、これは作詞者のブログを読んでみても同じである。まずはナショナリズムについて考え、次に別の側面からも光を当ててみたい。例によって批判する立場の日本型リベラル左派の人たちやメディアは「詩の切り取り」を行い問題化する。文章だけでなく言論というのは一部の切り取りではなく、その全体の意図を把握し、全体に対しての見解を述べることが人間における高度知能が試される場面ではあるまいか。『HINOMARU』の歌詞は以下から始まる。(全文引用は著作権の関係から避けます) 風のたなびくあの旗に 古(いにしえ)よりはためく旗に 意味もなく懐かしくなり こみ上げるこの気持ちはなに曲タイトルの『HINOMARU』のとおり、日の丸(日本の国旗)に対する言葉にならない非合理的な感性と感情の正体は何かという問いから始まる。他方では両親から始まるルーツの過去への広がりと、その過去の上に立つ自分自身は次のように表現される。 胸に優しき母の声 背中に強き父の教え 受け継がれし歴史を手に 恐れるものがあるだろうか全体を貫いているのは、サッカーワールドカップを意識した、日の丸を背負って戦う選手への応援とサポーターである日本人全員の応援意識を高めようとする、「応援する感情」である。それを主旨として受け取るのが自然ではないだろうか。重箱の隅をつつくように文言を切り取り、その切り取った文言に引用符を付けるようにして批判する文化は、現代人の知性の劣化を表していると言ったら言い過ぎだろうか。歌詞の一部を切り取り軍歌だとか国粋主義だとかの批判はピント外れであり、左派の右派叩きとしての我田引水ではなかろうか。そもそもワールドカップにせよオリンピックにせよ、国別対抗のスポーツ競技という色合いが濃い。なかには選手個人に光が当たることもあるけれど。選手は当然に自分の国を意識する。日の丸の国旗を意識する。応援する日本国民も、日本チームを応援する人がほとんどだろう。日本チームに負けて欲しいという人も中にはいるだろうけれど極めて少数だと思う。応援する側も、日本の国を意識する。日の丸を意識する。日本という国に長い歴史の中で形成されてきた「流れ」を意識する。その流れの最先端に私たちは今いる。グローバルでリベラルな考察や思想も大切で、しかし、それはナショナリズム(国家主義的意識)と常に反発するものではない。一個人のなかに、グローバリズムもナショナリズムもインディビデュアリズム(個人主義)もあるのがあたりまえだ。一個人の中に多様性を併存させることは何度も書いてきて、私のこのサイトの主旨の一つでもある。国別対抗の世界大会では、自分の中のナショナリズムを昂揚させることが自然ではないだろうか。何ゆえに、自分の先祖の歴史の上に自分が立っていること、自分の内面にナショナリズムがあることを認めようとしないのか。日本という国家に対しお蔭さまでという感謝の心があれば、ナショナリズムは自分の中に必ず在るはずである。長くなったので『帰属意識とアイデンティティ』については次の記事で。

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    • 帰属意識による愛と協働

      ある集団への帰属意識は多様な形で愛情を生みだす。前の記事では所属する集団の分類と価値について考えました。さまざまな集団が所有する価値に対して私たちは欲求を覚えます。価値に対する欲求をかなえて所属することで、その後に生じる帰属意識の愛と協働行為の素晴らしさと、注意しておくべきデメリットについて考えてみたいと思います。■ 帰属意識による愛1.自己アイデンティティの強化帰属先は自己アイデンティティの一部になりえる。愛国心や愛社精神、民族愛、宗教愛、あらゆる集団の一員としての帰属意識が高まれば高まるほど、その所属先への愛情は強く深くなる。所属集団への愛は間接的に自己を愛する行為となるが、これは正常な感情であり、基本的にはポジティブに考えるべき心理。2.連帯意識による互助愛互いに助け合おうとする土壌が自然にできる。人には愛されたいという受動的欲求だけでなく、愛したいという能動的欲求もあり、協働することで自然に仲間への愛情を培える。生涯を通じた財産としての交友関係や恋愛関係が生まれることが多々ある。3.ブランド的価値の共有国や所属する会社、信仰する宗教などのブランド的価値が高まれば高まるほど、自分の価値も高まる。(というふうに無自覚に感じる。快の感情が生まれる。)自分の所属体に競争相手がいれば対抗意識が強くなり帰属愛は深まる。所属体の一員としての矜恃が己れの姿勢を正す。4.希望を共有し生き甲斐とする帰属愛所属体の目的や目標を自分自身の価値観へ同化し希望の価値へと昇華させることができる。大きな志に情熱を燃やし皆でやり遂げようと団結する。苦楽をともにし、目的を達成すれば独力のそれよりも大きな達成感を得られる。多くの場合、所属体と自分との目的一致(価値観一致)の帰属愛は、自己の生き甲斐・働き甲斐に通じる。以上、ざっと良い面だけにスポットを当てて書いてみましたが、他にもあるかもしれません。そしてもちろん、所属することによるデメリットもあるので同時に押さえておかねばならない。■ 所属によるデメリット1.帰属意識をもてない所属利害関係での繋がりが強い場合、互いの利益のために利用し合うだけの関係になりやすい。組織としても個人としても所属による価値は半減する。2.帰属意識を利用されてしまう所属政治家が敵対勢力を敢えて作り内部求心力に代えて利用するように、帰属意識やナショナリズムは利用されることが往々にしてある。帰属意識と忠誠心については次の記事でとりあげる。3.奢りと空疎自己のアイデンティティを帰属体へ投影させたときに起きる弊害。依存度が高まると人格が空疎になる、所属体の価値観、理論、思想、教義など借りものの知識によってモノの価値や自分を表現することが多くなる。虎の威を借る狐。張り子の虎。威光を笠に着て特権意識を持つようにもなる。帰属体の後ろ盾がなければただの一個人であるのに修養を怠り、奢り高ぶり、自己評価が高いように勘違いをする。4.所属体の価値の下落所属先のブランド的価値や経済的価値が下がったとき、アイデンティティへのモチベーションも下がることが多い。所属体が批判されれば落胆し、怒り、無力感に晒され、やがて帰属意識などどうでもよくなる。自分個人の生活や金銭のため打算的に帰属を続けるか、その所属体から抜けるかという選択になってしまう。5.連帯感の閉塞感と退化連帯を強化しようとすれば全体主義に繋がりやすく、表現の自由や行動の自由が制限され大きなストレスとなる。得てして組織内では団結の名のもとに秩序至上主義に陥る人が増え、彼らの意見は強い求心力を発揮するのでたちが悪い。価値観の画一化は、組織も個人も退化へと繋がる。6.人間関係のストレス逆に連帯感が弱まり組織の自由度が高くなれば、自由に振舞う人たちによって横の人間関係に軋轢が生じやすく、ストレスは大きくなる。また、絆の裏返しはしがらみとなる。所属することで生じる幻滅やストレスは多々あります。組織の価値観が期待外れだったり変容してしまったり、大きなストレスを感じる人が所属体に存在していることなどのデメリットや、所属体のうまく機能しなくなって解散・倒産してしまうリスクもある。昨今は個人主義で「会社に雇われるのは収入を得るためだけ」というドライな労働的価値観も世間には散見されますが、帰属意識が希薄なのであれば個人として自立し生き甲斐となる仕事をすべきであって、いくら営利目的でも組織体に所属する意味は半減します。しかしデメリットやリスクについて理解を深め、注意を怠らず、一員として所属体の軌道修正にもポジティブに参加してゆくことで、所属による大きなメリットを享受することができる。いま所属している限りは、これから所属する限りは、帰属意識による所属体への愛を強くもって活動することのほうが、組織にとっても自分にとっても、お互いに良い関係となるのは自明です。日本という国家に帰属していることについても同様で、わが国を良くしていきたい、良くすることに自分が何らかの貢献をしたいという愛国心が有った方が、それが無いよりも、充実した人生をおくれると思います。会社にお勤めの方も然りで、何か趣味やスポーツのチームに所属するというのも同様です。共通の目標を定め、ともに力を合わせて活動をする、オーケストラのように作品を奏でる、目的の価値を創造してゆくという、「協働行為(コラボレーション)」は素晴らしい価値を内蔵している。次の記事では、帰属意識と忠誠心の美学をテーマにし、歴史的意義、欲求への心理、是非について考えてみたいと思います。

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    • 所属欲求を生成する価値

      生物の行動原理として人は、「価値」を付け「欲求」する。あるいは自然欲求(生理的本能的欲求)の価値を生得的に所持している。次の段階では対象の価値を探す。または価値を偶然に認識して欲求する。価値と欲求は切っても切れない関係にあり、「生の営み」のすべては価値と欲求によって説明できる。ナショナリズムや所属にかんしても、人それぞれに異なる範囲と異なる種類の価値付けを行っており、その欲求の度合いや関わりかたの源泉はすべて「個人」の心理にある。一個人の心理も時と共に変化しており千差万別だ。しかし我々は所属する際に、その所属先の仲間と「同じ価値」付けをし共感できていると考える。同じ価値にあたるのが客観であり、主観と客観を結び付ける概念を「間主観」と哲学者フッサールは名づけた。帰属意識の間主観のことを「共属感覚」といい、帰属客観のことを「共属意識」という。この点を押さえつつ、所属の欲求について考察する。■ 所属先の分類1.国家地図上に国境という線を引いた領土。所属するためには国籍を置く。政治的共同体でもある。統治のために法秩序を一にする。2.物理的境界のある共同体都道府県や市町村などの地方共同体。町内会。国家とは別の法秩序、または習俗的規範を暗黙的了解によって共通ルールとすることが多い。他方、地球を星の境界と考えた場合のグローバリズム(地球主義)も地球人としての所属先となり得る。3.郷土生まれ育った土地。自生的所属。特にパトリオティズムとしての郷土愛や愛国心的な帰属意識の対象となる。小さなところでは出身小学校の校区とその周辺。山や海、川など自然環境や街の風景、子どもの頃に直感した人間味などが想起されることも多い。郷土を離れて他国で生活する人にとっては祖国として対象になる。4.民族基本的には血縁と地縁を軸とする。同一の言語や文化・習俗に連帯意識をもつ。世界中に散らばっている民族もある。「族」の最小単位は家族。特に伝統文化的に帰属し政治的国家の枠組みに反発する集団意識(主にマイノリティ)のことをエスニシティと呼ぶことがある。関連する言葉にエスニック料理がある。5.イデオロギー共産主義、社会主義、自由主義などの「観念」を社会原理として、自分が積極的に認め或いは推進したいとする立場。帰属する団体。左翼、右翼などの意識的および無意識的帰属も含む。イデオロギーじたいには思想や理念(イデー)が根底にある。観念学のことをイデオロジーと呼ぶ。6.宗教教徒、信徒として、その宗派団体(寺社・教会)に所属する。または団体的なものには所属せず、概念上で教義そのものに対して帰属意識をもつ。7.利益目的の共同体利益や給与を得るための会社や団体。ドイツの社会学者テンニュスはゲゼルシャフト(機能体組織/利益を上げるための人工的な組織)と名づけた。彼の分類では、この項目以外はゲマインシャフト(共同体組織)になる。8.非営利目的の団体やチーム学問や趣味、スポーツにおける団体やチームに所属すること。保育園幼稚園から始まり小中高大の各学校、学校内の部活動や同好会。趣味の例で言えば茶道や華道などの流派。ボランティア団体。応援するチーム(例えばプロ野球球団)のサポーターになること。冒頭に書いたように、私たちは所属したいという欲求によって所属する。そしてそれぞれの所属先に対して帰属意識をもちます。所属したいという欲求をもつには、その所属先に対する価値をみずからが認識している。あるいは価値の可能性に期待をしている。後者は「何か価値あるいいことがあるかもしれないな」というぼんやりとした直感です。国家と民族が一致する場合、国家と郷土が一致する場合が日本人には多いと思います。ですので日本人はわりとナショナリズムにかんしての共有価値をもてる。ところが、多民族国家や民族が世界に離散しているユダヤ人、移民によって国家文化が徐々に崩壊していくイギリスやドイツ、フランスのケース、イスラム教徒のように線引きされた国家という概念がもともとなかった人たち、逆に宗教国家もあります。世界を眺めれば日本という国がいかに特殊なのかが再認識される。宗教の場合、自分が生まれる前から「価値」が両親のもとにあって、価値に基づいて育てられることが多々あります。宗教を道徳的原体験として植えつけられれば、その基準に沿って共属意識に安心を確信しながら生涯を送ることも多いでしょう。職業としての所属では、所得(お金)が価値として大きい部分を占める。分類をしたことによって所属する価値が見えやすくなりましたのでまとめます。■ 所属する価値1.自己アイデンティティの一部国籍、民族、故郷、学歴、経歴、信仰宗教、既存思想、所属会社、所属団体(チーム)などを、自分のアイデンティティの拠りどころにできる。アイデンティティについては別記事でやります。また、自分の名刺代わりに(或いは名刺に刷り込み)、他者に対し「自分はこんな人間です」としてアピールできる。2.精神的支柱集団の一員であることで安心感を得られる。所属組織(例えば国家)または所属先の成員に守ってもらえる。皆と一緒に喜ぶことで幸福感は増大し、皆と一緒に悲しむことで(または皆が自分の悲しみに共感してくれることで)苦悩は軽減されるなど。所属先の権威やブランドを自己投影でき他へ利用することもできる。3.生きかたの原理生きてゆく道の指針にできる。イデオロギーや宗教教義によって、世界や人間、自分という存在についての解釈と、どのように生きれば良いかという原理を、共属意識の中で仲間と一緒に「その道」を歩むことができる。4.経済的利益所得を得ること。5.内容学習と鍛錬学校や趣味のグループ、スポーツチームなどでは特に、学問の研鑽、技術の習熟、精神的鍛練など。6.帰属意識によるモチベーション所属先への帰属意識によって生じる、所属先への愛着。誇り。所属先の名声名誉を高めることで、成員としての自分の価値が高まる(ように感じる)。そのため、所属先の価値を高めるために貢献しようとし、大きなモチベーション要因となる。生きてゆく意義、生き甲斐になる。次の記事で詳述します。上記は今考えつく限りではありますが、これらの価値に対して所属欲求が起きます。名もない根無し草よりも、確固とした所属先の名前があったほうが社会的に有利です。また自分が何者であるかについて迷宮に入り疑心暗鬼に陥ることも無いでしょう。アイデンティティを確立しやすくなる。新しい価値を自分で創出するよりは、社会一般に広く普及している価値に右へならえしたほうが楽であることに間違いはありません。長い年月の批判に耐えてきた社会的な器の価値には風格さえあります。所属することによって受ける恩恵は大きいです。しかしストレスやリスクなどのデメリットも当然ある。物理的金銭的なことのみならず精神的なことや人間関係的なことも含めて、総合的に価値判断を行って所属するかどうかを決断し、所属を継続するかどうかを、人は随時判断しています。無意識的にも。価値観は十人十色で一個人の心理状態も時々刻々と千変万化しますので、どの価値に魅力を感じ、どこに所属し、どのように所属価値を生かすか、所属先のどのような面に嫌気がさすかなどについては差が大きいかと思います。そのなかで一つ主張したいことがあります。次の記事以降で予定している「帰属意識による愛と協働」「帰属意識と忠誠心による美学」で詳述しますが、前の記事で触れた「不安定・不確実性の時代」だからこそ、個人の精神的支柱とするために、「良き所属」をお勧めしたい。それも一つではなく二つ三つ複数あった方がいい。私個人としては所属することを好まず、何十年もほぼ「日本国籍」という帰属意識だけで生きておりますし、新しい自己価値を創造することに生き甲斐を感じる者です。不安定や不確実性、変動性、混沌は気にならないどころか、望むところでもある例外的な人(苦笑)です。自他認識での非共感(自分が嫌なことを他者が好むことが多い)は織り込み済みですので、自分の無所属的な生き方を他人に「良い」とお勧めすることは致しません。逆にこうして「良き所属」をお勧めする次第です。

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  • 20Apr
    • リベラル・アーツの構築

      今回はリベラル・アーツのお勧め記事になります。どういう人へのお勧めかというと、これから何をしたら良いのか目標が定まっていない人、テーマはぼんやりと決まっているんだけど戦略が整わない人、ひらめきでクリエイティブな仕事をしてみたい人(営利的な仕事に限りません)、他にも応用が利くと思います。特に直観を大事にしている、目の前のリアルよりも可能性を求めるタイプの人に相性が良い自己実現型戦略論です。リベラル・アーツの淵源は古代ギリシャにあります。主に文系の3学と数学系の4科を合わせたリベラル(自由な)アーツ(思考技術)を磨くための分類分けで、自由7科とも言います。ソクラテスやプラトンが活躍したギリシャ時代では、PHILOSOPHY(知を愛すること)が最も重要視されていました。和訳では哲学ですが、現在の哲学とは全く違っていて、学問をトータル的にフィロソフィーと呼んでいた時代です。西洋の中世から近世にかけ哲学の領域がどんどん狭められて、現代では「主に先人の哲学を研究する専門分野の学問」のことを日本の大学では哲学と呼んでいます。本来は、好奇心いっぱいで「疑問に思って、問うて、考えること」が哲学です。ゆえにPHILOSOPHYのために、上図の7科を横断して学ぶスタイルがとられていたというわけです。(ソクラテスは修辞学に反対でしたが)さて話は変わりますが、最近図書館で借りてきた中でとてもためになることがたくさん書かれていた本をご紹介します。お勧めです。ダイヤモンド社 山口周著 『知的戦闘力を高める 独学の技法』 (2017年11月15日刊行 1620円)表紙をめくると黒いページにいきなり白抜き文字の言葉が目に飛び込んできます。 思うに私は、価値のあるものはすべて独学で学んだ (チャールズ・ダーウィン)コンサルタントの著者は、これからの時代は専門バカでは駄目だと言い、リベラル・アーツの重要性を解説していくのですが、とにかく解りやすい。ロジックも解りやすく、最初から最後までの筋立てが非常に解りやすく、テキストの大きさもメリハリがあって楽に読めてしまいます。「覚えたことをどんどん忘れていい(忘れるべき)」とも言っています。基本はビジネス論なのですが、ビジネス以外の「仕事」でも、趣味やスポーツにでも応用が利くと思います。著者は独学を四つのモジュールのシステムとして組み立てます。 1「戦略」→2「インプット」→3「抽象化・構造化」→4「ストック」各章のサブタイトルは次のようになっています。 序章 知的生産を最大化する独学のメカニズム 第一章 限られた時間で自分の価値を高める「戦略」 第二章 ゴミを食べずにアウトプットを極大化する「インプット」 第三章 本質を掴み生きた知恵に変換する「抽象化・構造化」 第四章 知的ストックの貯蔵法・活用法「ストック」最後の第五章では、リベラルアーツを学ぶ意義として次の5点を主張しています。 1.イノベーションを起こす武器となる 2.キャリアを守る武器となる 3.コミュニケーションの武器となる 4.領域横断の武器となる 5.世界を変える武器となる古代ギリシャの自由七科にあたる著者お勧めのジャンルは11種類。 歴史・経済学・哲学・経営学・心理学・音楽・脳科学・文学・詩・宗教・自然科学このうちまずは、自分のテーマに応じた2種類を学んでクロスオーバーさせる。ここでのポイントは次のように書かれています。 掛け合わせるジャンルについては、「自分の持っている本性や興味」を主軸に選ぶべきで、他人が「持っているもの」で、自分が「欲しいもの」を主軸にしてはいけない。ただ、全部が全部、著者の主張どおりにする必要はなく、例えば第四章には本をノート換わりにしてどんどんアンダーラインを引いたり言葉を書き込んで付箋を貼っていくことを強く求めていますが、私はそうしません。或いは、上記ジャンルで99冊の書籍が紹介されていますが、私としては特に哲学や心理学で著者とは全く別の本を紹介するだろうなあと思いました。99冊のうち興味を惹かれたのは7~8冊でした。あくまで参考ですね。私には6割か7割くらいの共感がちょうどいい。8割以上共感だと残りの2割以下に強い拒否反応を示すことになりますし、5割以下の共感ではストレスを抱えることになります。私はこれを友人等を選ぶときの基準にもしています。テーマとジャンルを暫定的に決めて、リベラル・アーツのシステムを構築します。けっこう楽しい作業です。ギリシャ時代と上記の本の、リベラル・アーツの考え方を基に自分でオリジナル構築したのが、前の記事『小さな志ですが。』に掲載した下のイラスト図です。自分独自の変形リベラル・アーツです。「こころの美学を創造すること」がテーマになっていて、(大西克禮の)美学、医学系の科学、認識論と自由論系の哲学、日本思想、意識と無意識を解明する分析心理学の5つのジャンルをクロスオーバーさせる形です。日本思想の中には文学や歴史、倫理学、老荘思想なども関連付けていますし、哲学では個人主義や共同体主義等のイデオロギーを関連付けています。おそらく更に広がっていくでしょう。私はそれほど広範囲に多くの著者の本を読みません。例えば哲学ならばニーチェとカントだけを深く掘り下げます。もちろんロールズの『正義論』やJSミルの『自由論』なども読みますがこれらは浅くて良いと思ってます。分析心理学ではユングのみを深く、ですね。なぜヘーゲルやハイデッガーや、心理学でいえばフロイトを読まないかと言えば、独りで充分だからです。例えばニーチェを読めば、ニーチェによってギリシャ古典文献学はすべてフォローされていますし、カントやデカルトなど、19世紀半ば以前に活躍した哲学者の叡智をニーチェという天才が所有しているわけです。ユングについても同様のことが言えます。自分と相性の合う先賢を小人数で良いので深く何冊も読んで、「ニーチェならこう言うだろうな」というところまで一体化したほうがいい。『西洋流と日本流、真逆とも言える無意識への道』の記事で触れた内田樹さんが、レヴィナスだけを深く読みこんで「レヴィナスなら内田樹だ」と言われるほどまでになったと同じところを目指したい。ニーチェにしてもユングにしても、大西克禮にしても、私とは比較にならないほどの、否、比較することが失礼なほどの天才・秀才なのですから、彼らのエッセンスを凝縮してその叡智を自分の血肉にできるのなら、ニーチェひとりの3割でも凄いことになります。あなたも自分独自のリベラル・アーツのスタイルをつくってみてはいかがでしょうか。ということで、今後のブログスタイルは、同じジャンルのテーマを連続させないように、連続させるとしても今までのように(1)→(2)のようには続けないことを基本とします。既に『幽玄(1)』を書いていますが、『幽玄(2)』は幾つか別の記事を挟んだうえで記載していくというイメージです。そのほうが自分の頭のなかがクロスオーバーし易いと思いますので。

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  • 01Jan
    • ■ ストック記事を置かないブログ

      当ブログは、平成25年(2013年) 1月31日にスタート致しました。数ヵ月後に、「ペタ機能」「コメント欄」「Amebaいいね!ボタン」の使用を不可としてSNSでの交流を求めない、発信だけに特化したコラムサイトへと変貌を遂げました。以降、毎日2000字を超える長文を書き続け、3年を経過した平成28年(2016年) 2月1日に、約1100記事200万文字を超えるストック記事をすべて削除致しました。削除理由は、積み重ねた過去への依存に自分自身が妥協できなかった点。これより、ストック記事を置かない(直前の数記事を残して削除していく)サイトになりました。2016年末をもちまして、個人サイトのホームページでブログを書いてゆきます。amebloにはブログ記事のコピー&ペーストを期間限定で貼っていくつもりですが、手間もあって全部の記事ではなく一部の記事になると思います。これからですが、再度アメブロに注力しに戻ってくるかもわかりませんし、やめてしまうこともあるかもしれません。けれど4年間お世話になったアメブロ以外のSNSブログサイトには行くつもりはありません。ご縁を大切にしたいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。

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