エピソード記憶に対する批判
記憶は記録なのだろうか。記憶は記録と呼べるものなのだろうか。今日、ふいにこの疑問が立ち上がった。「記」という漢字を使うのは誤解のもとではないかと考えた。記憶はすべて記せるものなのか。記せないもののほうがほとんどではないのか。一方で記録は記したものであり記せないものを記録とは言わない。人は自分自身の記憶とその想起しか体験できない。そこから他人にも記憶という仕組みがあるだろうとか、同じような仕方で記憶しているのではないかとか、推測の域を出て確信してしまっている感がある。記憶と記録の本質的な違い、記憶の相互主観性による客観理解については、エッセーで書ける分量ではないので今回は横に措く。人間の記憶について、科学的にはほとんど解っていない。心理学者が現象からの統計などを使ってそれらしい論で説明するが、とてもじゃないが信用できるレベルにない。1972年に心理学者がつくりだし、その後に流行となっている「エピソード記憶」なる概念について、少し考えてみよう。エピソード記憶のエピソードはその名のとおり欧米語であり、欧米の “episode”という概念を使っている。日本人の個々が抱く「エピソード」概念とは少々違っているかもしれないことを念頭に置こう。まず三省堂の『英語語義語源辞典』で [episode] を調べてみたが詳細についてはほとんど解らない。次に研究社の『英語語義語源辞典』で引いてみた結果を以下に引用する。 [episode] 1《1678》(ギリシア悲劇の、二つの合唱の間にはさまれた)対話の段、エペイソディオン。2《1679》(詩・物語中の)挿話、エピソード。3《1773》(生涯・一国の歴史などにおける)挿話的なできごと、逸話。4《1869》〈音楽〉(フーガ・ロンドなどの)挿入部、間奏。最後の音楽に使われる [episode] は、それまで使われてきた語義語感の応用だと考えてよいだろう。3までに共通しているのは「話」であり、意味内容をもつ。例えば卒業式のワンシーンであるとか、危険な目に遭ったワンシーンであるとか、「そういえば、あの時にあんなことがあった」とか。そうした意味内容をもつ記憶は「記」であり言葉でできている、というのがほとんどの心理学者や一部脳科学者の主張である。言語化ができるということだ。あるいは言語によって海馬あたりに格納されていると主張する者までいる。本当にそうなのか?私の場合、過去の記憶は言語ではなく映像で憶えていることがほとんどだ。しかもエピソードではない。話の意味内容はない。例えば、小学生の頃に通学路を歩いていた感覚や印象、記憶映像には「感じ」が最優先されている。感情ではなく感じだ。その感じは日本語のオノマトペ言語によっても表現できない。私のこころから1ミリも出すことができない。加えて言うと、入学式や卒業式など、何かのイベントのエピソードは、写真などの手掛かりが無ければ何一つ立ち上がってこない。一方で意味内容がなく、特に憶える必要も内容的感想もないような映像シーンと「感じ」については、相当な量の記憶を意志のみによって立ち上げることができる。言語的な意味内容の記憶を立ち上げようとする際には、私の場合、映像シーンを探そうとする。そのときの「感じ」を想いだそうと、特に「場」を探す。地理的空間的な「場」や、誰と誰がその場にいてどういう感じの「場」だったかを探し出そうとする。年月は一切関係ない。その映像シーンを想いだして特定した後に、言語的な意味内容といつだったかが確認される。私に似たような記憶の立ち上げかたをする人は、他にもいると思うのだ。そうした体験に基づくと、心理学者のいうエピソード記憶という概念は、一部の人たちの傾向に過ぎないと言える。嘘っぱちだとまでは言わないが、少なくとも普遍性があるものではない。心理学のエピソード記憶概念が妄信され、その論理が基盤となって他の論理と関連付けられてしまえば、誤った方向へ人間原理が導かれてしまう。記憶のメカニズムそのものと、想起のしかた起こしかたは、もしかすると数パターンに分けられるのかもしれない。個人によって特性があることは確かだろう。記憶メカニズムに個の多様性があることは、人間社会にとって歓迎すべきことだと思う。今日の主張のまとめとして次のことが言える。現在のところ普遍性のある記憶構造と力動について、画一的に単純記憶とエピソード記憶に分けることは恣意的であり、メカニズムのほとんどは発見もされていないという見地に立ったほうが哲学的探究の可能性にひらかれるということだ。あなたの記憶はどのように機能しているだろうか? そのメカニズムはあなた独自のものであり、他者とは異なる可能性が十分にあることを、是非再認識していただきたいと思います。