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母は、1923年(大正12年)9月16日の生まれで、今日は85歳の誕生日である。

今月に入って「入れ歯を作りたい!」と言うので、10日に歯医者へ連れて行った。

今日が2度目で、歯医者の前で写真を撮った。


母の実家は明石(日本標準時の東経135度の子午線が通る)で、サラリーマンの娘であったが、父と恋愛

結婚(聞いたわけではないが)で母子(もうし)の村へ嫁いできたようである。

サラリーマン家庭から貧農の農家へ嫁いだ母は、農家の仕事や周囲に馴染めず、心の病気になった。

今で言う「統合失調症」だ。


私には、小さいころの母との思い出がない。

寝るのは いつも 祖母とだった。

一緒に遊んだ 思い出すらない。

そして 母を思いやるような気持ちを持つことすらできないような生活状況だったような気がする。


とにかく貧しかった。。。

私はお金持ちになりたいと思い、何としても大学へ行きたかった。

国立大学でも、仕送りは望めないのに、国公立の入試に失敗した。

滑り止めに一校だけ受けていた私立大学は、断念するように言われたがあきらめきれなかった。

高校時代からもらっていた奨学金を入学金に充て、入学を果たした。

授業料と生活費は、国と入学した大学の奨学金、それに授業を削っての昼夜を問わずのアルバイトで賄っ

た。

お米だけは、父が送ってくれた。

私の友人は、地方の出身者が多く、腹が減ったら私のコメを当てにしていた。

アルバイトが面白く、授業はおろそかになっていった。

それでも、四年で卒業した。


就職もした。

学生時代も就職してからも、いつも田舎からの電話におびえていた。

母がおかしくなったという知らせがあるたびに、私は急いで帰ってその対応に追われた。

この頃だ、私が神はいないと確信したのは。


私は、ず~と母の誕生日は知らなかった。

還暦を迎えて、私は故郷の母子(もうし)村へ帰った。

母は、年をとって穏やかになって来た。

私も、やっと母の気持ちになって、人生を振り返ってみることができるようになった。

苦しかっただろうと思う。

私の人生の中に、母と言う存在はほとんどなかった。

それどころか、「母さえいなかったら・・・」と思ったことがたびたびだった。


・・・続く


昨日、今年3回目のバーベキューをしました。
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雨模様だったので、自宅横のガレージで。
娘たち家族・妻の実家・それにたまたま敬老の日ということで立ち寄ってくれた姪っ子の一家も!
ご飯は飯盒炊爨(はんごうすいさん)。