依釈段•道綽讃

道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
万善自力貶勤修 円満徳号勧専称
三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果


みなさんこんばんは、蓮夏一照です。

さて今日は、浄土教の歴史でキーパーソンの一人、道綽禅師のお話。

この人、ひとことで言うと──

「聖道門、もう無理やとハッキリ認めた最初の勇者」


です。

◆1. はじめに:道綽さん、だいぶ真面目

道綽さんはもともと、中国・北魏のエリート僧侶。ガチの修行者で、聖道門(自力の道)を人生フルコミットで求めていた。

ところが──求めれば求めるほど、こう思ってしまう。

「……いや、これ、凡夫には無理やん?」


最終的に、

「証しがたい(=到達不可能)」


とハッキリ自覚してしまうのです。

「いやあの、修行がんばってみたんですけど、レベル99の世界ボス相手に、レベル4の木の棒で挑んでた感じでしたわ。」

という感じ。

◆2. 「ただ浄土の通入すべきことを明かす」

そんな彼がたどりついたのが、

「浄土門こそ、凡夫の道である」


という大発見。

ここで“通入(つうにゅう)”という言葉が出ますが、これは入口も出口も“一通”という意味。

「聖道は迷路やけど、

 浄土への道は一本道。

 迷う余地なし。」


というわけです。

◆3. “万善の自力、勤修を貶す”とは?

「貶す(けなす)」と読むんですが、実はここ、“悪口を言う”という意味じゃありません。道綽のニュアンスは、

「凡夫が自力で積む善は

 救いの“決定打”にはならへん。」


という冷静な事実認識。つまり、

「善行は大事やで。でもそれで悟れると思うなや。凡夫の善は、せいぜい“善い気分”になるだけや。」


みたいな感じ。

「大掃除したら部屋ちょっとキレイになるやろ。せやけど部屋が“宇宙ステーション並みに清浄”にはならんやろ?」

そういう話。

◆4. “円満の徳号、専称を勧む”

ここが道綽のキラーフレーズ。

「だからこそ名号(ナムアミダブツ)を専ら称えよ」


という勧めに入る。名号は「円満の徳号」──すべての功徳が丸ごと詰まっている“完成された善”。凡夫の善とはカテゴリそのものが違う。

「コンビニの100円コーヒーと、ブルマン

No.1を比較するようなもんや。」

いやもっと違うかもしれません。

◆5. “三不三信の誨、慇懃(いんぎん)にして…”

これは、道綽が『安楽集』で説いた

  • 三不(できない3つのこと)
  • 三信(本願への三つの信)

これを“慇懃=丁寧すぎるほど丁寧に”説いたということ。

彼の姿勢は終始一貫している。

「凡夫よ、無理すんな。

 阿弥陀に任せなさい。」


という慈悲。

◆6. 「一生悪を造れども、弘誓に値いぬれば…」

ここが道綽の核心。

「一生悪いことばっかりしてても

 本願に値えば、安養に至る。」


これを読んで「え、悪してもOKなん?」

と思った方、ちょっと待って。

そうじゃない。

これは、“悪を肯定している”のではなく、

「悪を抱えたまま生きるしかない

 凡夫の救いを阿弥陀は

 あきらめへん」


という意味。

「悪いことしたらあかんのやで。でもな、したとしても“救われる道”は閉じたらあかんのや。」

それほど、阿弥陀の願は大きい。

◆7. 法話的まとめ

✔ 聖道は、凡夫には到達不能。

✔ だから本道は浄土。

✔ 自力善は役割が違う。決定打にはならない。

✔ 名号こそ“完成された善”。

✔ 本願は、悪を抱える凡夫のためにある。


◆8. 落語的まとめ

道綽禅師、ある夜こう悟る。

「あ、これもう“アミダさん一本”でええやん。」


そして翌朝から

「おはようございます阿弥陀

 さん。今日も全部あんたに

 任せますわ。」


と、スッキリ顔で参拝した。

この姿勢こそ、

後の親鸞聖人へとつながる大きな流れになるんですね。