帰敬序
帰命無量寿如来 南無不可思議光
■【1】まずはこの一行
「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。」
これ、親鸞聖人の“宣言”みたいなものなんですが、読んだ瞬間、こう聞こえるんです。
「ほな、わては弥陀さんに全部まかしまっせ!」
もう腹ァ決めた。
逃げも隠れもせぇへん。
そんな“覚悟の一礼”が最初の一言なんですね。
■【2】「帰命」って、何か怖い響きやけど…
たとえるなら――
● 破れかぶれで土下座する
……みたいなんではないんです。
“帰命”は、
「命を帰す」=「自分の命のハンドルを仏さまに渡す」
という意味。
つまり、
「わし、運転やめるわ。
事故ばっかやから、プロドライバー(阿弥陀さん)頼むわ」
という状況なんです。
人間、みんな“自分が自分のドライバー”やと思ってるけど、実はガードレールに擦ってばっかり。
親鸞さんはそれを「煩悩具足の凡夫」 と呼んだわけです。
■【3】落語的に言うとこうなる
登場人物A:「わし、自分で悟れると思てたんや」
登場人物B:「いやいや兄さん、そら無理筋でっせ」
A:「ほな誰が運転してくれんねん」
B:「弥陀はんがおるがな」
A:「おおきに、お頼みしますわ」
……で、これが 帰命。
このテンポ感こそ「無量寿に帰命」の実感なんですね。
■【4】「不可思議光」ってどんなん?
「不可思議」とは、
“考えても分からへんし、説明もようできん” という意味。
例えるなら――
● 落語家が急に本番で神がかった高座をした
● 「なんでそんなにウケたん?」と聞かれても「知らん」
――そんな時の“あの感じ”です。
仏教的に言うと、
「どんな闇の心でも、照らしてしまう光」
ただし、この光は
● 眩しすぎて見えへん
● 理屈で語れへん
● でも、確かに届いてくる
そんな“あたたかさ”を持ってる。
■【5】法話的核心
――なぜこの一句が“冒頭”なのか?
親鸞聖人は、
仏教の教えを語る前に、まず「わたしはこの光に照らされてる者である」という立場を明らかにした。
これは、
● 「エラそうに説く人やない」
● 「救われた者として語る人」
という姿勢。
だから最初の一句は、いわば 名刺 なんですね。
名刺の肩書きが、
「煩悩だらけですが、光に抱かれております」
……これこそ親鸞聖人流。
■【6】一照のまとめ
親鸞さんは、この一句でこう言いはったんや思います。
🌟【蓮夏一照的意訳】
「わしは弥陀さんの光の下で、
どうしようもない自分を抱きしめられながら生きてます。
そんな身が語る念仏の道、
よかったら聞いとくれやす」
なんか、温かいでしょう?
“完璧な人”が語る法話やない。
“抱かれた人”が語る言葉なんです。