■ “辺地行き”をバス停と勘違いする坊さん


第17章

ある日のこと。

とある若い僧侶が青い顔して寺へ飛び込んできました。


「先生…ぼ、僕…

信心が弱いから“辺地往生”しかできないって言われまして…。

しかも、“辺地行きは最後には地獄に落ちる”って…!」


うん、それ誰が言うた?

Amazonレビューちゃうんやから、勝手な評価つけんでよろしい(笑)


そもそも“辺地=地獄行きの待合室”みたいな噂、

親鸞聖人は 完全否定 しとります。


聖人のお言葉、こうです。


「いずれの証文に見えそうろうぞや」

――そんなこと、どの経典に書いてあるの?


落語風に言えばこう。


「誰やそんなデマ流したんは!

仏法を週刊誌のノリで語ったらあかんぞ!」


■ そもそも“辺地”って何?

よく誤解されますが…


● 報土(本当の浄土)…信心まっすぐの人

● 化土・辺地…信心が揺れたり、疑いが残る人(←ようあること)


つまり、

“劣等生の部屋”でも“懲罰房”でもない。


むしろ“補習クラス”。

そこで疑いが消えて、やがて報土へ行く。


親鸞聖人はこう言われる。


「辺地に生じて、うたがいのつみをつぐのいてのち、報土のさとりをひらく」


落語風に置き換えると…


「車校の仮免落ちたら地獄行き」

って言うてるのと同じくらい雑やな!(笑)


■ “辺地はムダになる”と言うのは…

ここが本題です。


親鸞聖人はこう叱ります。


「ついにむなしくなるべし、とは如来を虚妄と申すなり」


つまり、


● 辺地に生まれる

● そこで疑いを脱ぐ

● その後、報土の覚りをひらく


という流れを否定するのは、


阿弥陀さんの約束はウソや」

と言ってるのと同じやぞ


ということ。


落語風に言えばこうです。


「自分が信心弱いのを棚に上げて、

阿弥陀さんの方を責めるんかい」

■ じゃあ、信心が弱かったらどうなんの?

どうもならんのです。


むしろ、


● 信心がかけてる

● まだ疑いが残る

● 心が揺れまくる


――大いに結構!!


阿弥陀さんは、

そんな“揺れる凡夫”を対象に本願を建てたのだから。


報土に直行できないなら、

化土・辺地で“疑いの宿題”を解く。

それだけのこと。


■ 一照的まとめ



・「辺地=地獄行き」なんて証文は一切なし

・ 学者ぶった坊さんの“言い草”が独り歩きしただけ

・ 辺地は“救われ損ね”ではなく“救われ途中”

・ 疑いがあるからこそ、阿弥陀の誓いがはたらく

・ 化土から報土へ。全員ゴールは同じ


最後に、親鸞聖人の心を一照風に言うと――


「そやから、お前ら心配すんな。

揺れとるから救われんのやない。

揺れる“お前”を救うのが阿弥陀の仕事や」