第14章
「先生、“一念で八十億劫の罪が消える”って聞きましたけど……
わたしの罪、そんなに高性能な掃除機みたいに吸い取ってもらえるんですか?」
――と、あるご婦人が言った。
いやぁ、最近の家電より阿弥陀如来の方が性能いいと思いますよ、と返すと、
「そんなん言われたら、余計あやしいわ!」と笑われた。
たしかに、数字だけ見ると荒唐無稽。
八十億劫って、地球できて滅ぶまで100回繰り返しても足りません(笑)。
けれど、歎異抄はここをめちゃくちゃ重要な“誤解ポイント”として説明してくれてるんです。
■ 八十億劫の罪が消える――誰の話?
第十四条は、こんなことが書かれてます。
死ぬ間際に善知識に教えられて
初めて念仏を称えた十悪五逆の
人が、一念・十念で八十億劫の
罪を滅ぼす――
これは、“滅罪の例え話”やで
まずここ、大事。
この教えは 「日頃念仏してる私らの話ではない」 と言われてる。
「十悪五逆の罪の重さってこのぐらいやで」と示すための説明なんです。
だから「一念で全部消えるんか!」と喜ぶのは、スーパーで“サンプル用の模型”を本物やと思うようなもの(笑)。
■ 親鸞聖人が言いたいのは「罪が消える仕組み」ではなく…
親鸞聖人はこう言います。
我らの身は、信心いただいた
一念に、すでに定聚(じょうじゅ)
の位に定まる。つまり
「もう仏に成ることが決定した身」になるんや。
そう、ここが本題。
● 一念で罪が消える
ではなく
● 一念で「仏に成る道に入る」
これが肝心なんですね。
阿弥陀の本願のひかりに照らされたその
一瞬、「八十億劫の重罪を消す」なんて
レベルを超えて、“煩悩にまみれたこの私”
がまるごと抱きとられてしまう。
だから親鸞聖人は最後にこう言う。
だから念仏を称えるのは、罪を
消すためやなく、
恩を報じるためと思いなさい。
これが、めっちゃ深い。
■ 落語で言うと、こんな話
ある男が、お上から借金を抱えた。
「返せ!返せ!」と言われて夜も眠れない。
そこへ突然お触れが出て、
「このたび、すべての借金を免除する」と。
男は大喜びして、商売も頑張るようになった。
しかし、隣の男はこう言う。
「借金チャラになるなら、もっと
借りときゃよかったなぁ!」
……なんか違う(笑)。
親鸞聖人が言うのは、
「借金が消えることが大事なんやない。
その恩を知って、まっすぐ生きる心が
大事なんや」
ということ。
“滅罪の性能”を調べるより、
“救われたこの身でどう生きるか”の方が本題なんですね。
■ 「念仏称えるたびに罪が消える」は自力の心
第十四条では、
とくにこれを注意してます。
「念仏称えるたびに罪を消そう」
という心は、すでに自力の
はからいに落ちている。
つまり、
「罪を消すために念仏する」=自力
「救われた喜びで念仏する」=他力
この違いがめちゃくちゃ大きい。
自力の念仏は、“退転”の不安が消えません。
他力の念仏は、すでに“正定聚”に入っている喜びから出てくる。
そう、念仏は“行為”ではなく“響き”。
■ 罪が消える前に、救いが決まっている
親鸞聖人は、最も肝心なところでこう言います。
「摂取不捨の願をたのみたてまつらば、どんな事情で念仏できずに死んでも、すみやかに往生をとぐべし。」
これほどまでに強い言葉を使うのは、
“念仏の数”や“滅罪の量”を問題にしてほしくないから。
救いは、行為より先に「信心」で決まる。行動の前に、如来の本願が働いている。
だから、
念仏するたび罪が消えると
信ずるは、
すでに自力のこころなり。
✨ 今夜の一照・ひと言
「罪を消すのが念仏ではない。
罪を抱えたまま救われていると
知るのが念仏。」
🌕
“八十億劫の罪が消える”という教えは、
数字の話ではなく、
「こんな罪の身を、そのままたすける願がある」
という救いの深さを示すための言葉。
その一念に触れたとき、
私たちはすでに“仏へ向かう道”に立っている。
あとは、そのご恩を忘れずに、
ただ静かに
「南無阿弥陀仏」と称えるだけ。