第11章
ある日の法座。
お茶を飲みながら談笑していると、ひとりの熱心な信者さんが腕を組んで言いました。
「先生、聞いてくださいよ。最近、“誓願不思議”と“名号不思議”、どっちを信じとるんやって、詰められたんですよ。あんたはどっち派や?って。」
……あぁ、出ました。“派閥化”のにおい。
■ 人はなんでも分けたがる生きもの
世の中、なんでも“二つに分けたがる”もんです。
好きか嫌いか、白か黒か、右か左か。
ラーメンだって「こってり」か「あっさり」。
お寺の議論でも、なぜか同じことが起こる。
「誓願を信じるのか、名号を信じるのか」――。
けれども、これを親鸞聖人が聞いたら、
きっと、こう笑われるでしょうね。
「あのな、
どっちも阿弥陀はんやで。」
■ 「誓願不思議」と「名号不思議」は、二つに見えて一つ
親鸞聖人は、こうおっしゃいました。
「誓願の不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、
この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束あることなれば……。」
つまり、阿弥陀さまはまず「誓い」を立てられた。
“どんな人でも救う”という、底抜けの願い。
その「願いの不思議」から生まれたのが、
「名号(南無阿弥陀仏)」という“呼び声”なんです。
だから、誓願も名号も、実は同じ“はたらき”の二つの面。
いわば、**「心」と「声」**の関係みたいなもの。
心があるから、声が出る。
声を聞けば、心が伝わる。
……どっちが先かなんて、もう意味がないんです。
■ ところが、分けたがるのが凡夫の性(さが)
ところが私たちは、つい「正しい方」を選びたくなる。
「あんたの信心は浅い」「そっちは違う派や」――。
そのうち、ありがたい念仏が“マウント合戦”に変わる。
阿弥陀さまも、きっと頭をかかえておられますわ。
「あの子ら、救う順番ちゃうで。一緒に呼んでるだけやのに……」
■ それでも、包み込むのが本願
親鸞聖人はこう教えられます。
「名号の不思議をもまた信ぜざるなり。
信ぜざれども、辺地懈慢疑城胎宮にも往生して、
果遂の願のゆえに、ついに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。」
……つまりこうです。
「わからなくても、信じきれなくても、結局ぜんぶ包んでくださる。」
信があろうがなかろうが、
誓願だろうが名号だろうが、
如来の側から見たら、**“ひとつの光”**なんですね。
■ 落語で言うなら、こんなやり取りです
客「大将、ラーメン、しょうゆ味とみそ味、どっちが“ほんま”ですか?」
店主「どっちでもええがな。腹、満たされたらそれでええやろ」
……これ、信心の話にもそっくり。
食うことが目的なのに、味の派閥争いしてるようなもんです。
阿弥陀さんは、どんな味の人間でも食べて(包んで)くださる。
「誓願」も「名号」も、あっさりもこってりも、ぜんぶ一緒。
■ 「信じる」は、“選ぶ”ことじゃない
本当の「信じる」は、「委ねる」ことです。
「誓願を信じます」「名号を信じます」と“選ぶ”のではなく、
“私を超えたはたらきに、まるごとおまかせする”。
それが、誓願不思議を信ずるということ。
そして、名号不思議に生かされるということ。
ふたつの不思議は、手のひらの表と裏。
どちらを見ても、その中心には同じぬくもりがあるんです。
■ 今夜のひとこと
「誓願と名号――分ける心を、ひとつに包むのが阿弥陀の慈悲。」
🌕
人はどうしても、“自分の理解”で信じようとします。
けれども、親鸞聖人の信心は、「わかる」ことではなく「まかせる」こと。
誓願と名号を分けようとするたび、
「ほら、もうええねん」と笑いながら、阿弥陀さまは抱いてくださる。
だから、今日も安心して、
ただ「南無阿弥陀仏」と申せばよいのです。
南無阿弥陀仏。