第7章
ある日、お寺で説法のあとに、
おばあちゃんがぽつりと聞いてこられた。
「先生、“念仏したらすべて丸く収まる”って、ほんまですか?」
――ああ、出た。「すべて丸く収まる」。
世の中そんなに都合よくいきませんやん、って話ですよね。
でも、そのときふと思い出したのが、
親鸞聖人のあの言葉でした。
■ 「念仏者は、無碍(むげ)の一道なり」
「念仏者は、無碍の一道なり。
信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なり。」
難しいようで、実はすごくシンプルな話なんです。
「念仏者は、無碍の一道」――
つまり、何ものにも妨げられない道を歩む人、ということ。
でも、ここで大事なのは、
“何も起こらない”という意味じゃないんです。
嵐は来る。
壁も出てくる。
だけど、それらに心が縛られない。
それが、「無碍(むげ)」なんですね。
■ 無碍とは「障りがなくなること」ではなく「障りにならなくなること」
たとえば、道を歩いてて、雨が降る。
普通は「嫌だなあ」と思う。
でも、傘を差せばどうってことない。
風が吹いても、帆を張れば進む。
“障害”そのものは消えないけれど、
その受け取り方が変わる。
それが、「無碍の道」。
親鸞聖人は、「念仏者は無碍」とおっしゃるけれど、
それは“超人”になることじゃない。
むしろ、「自分の力じゃどうにもならない」ことを
ありのままに受け止めること。
そこから、道が自然に開けてくる。
■ 「天神地祇も敬伏す」というのは
親鸞聖人は続けて、こうも言われます。
「信心の行者には、天神地祇も
敬伏す。」
これ、ちょっとスケールが大きいですね。
要するに、天地の神々すら、念仏の行者に頭を下げる、ということ。
つまり、「如来の大悲」に照らされた人は、
どんな存在にも怯えない。
地位や名誉、他人の評価なんかに振り回されない。
自分の心の“王”になる。
だから、天も地も、その人を敬うんですね。
■ 罪も業も、届かない場所
さらに聖人はこう言います。
「罪悪も業報も感ずることあたわず。」
これも、「悪いことしても大丈夫」ではなくて、どんな罪も、如来の光に包まれているという意味。
光の中では、影が影のままに輝く。
罪のまま、煩悩のまま、照らされて生きる。
それが、念仏者の姿なんです。
■ 落語で言うなら「つまずかない人生」ではなく「つまずける人生」
ある噺家が言いました。
「人生は、こけた数で味が出る」って。
たしかに、こけるのを怖がってたら、
どこにも行けません。
でも、こけても立ち上がれる。
それどころか、こけたことが“笑い話”に変わる。
そういう人は、もう「無碍」なんです。
念仏者は、悲しみも笑いに変える道を歩いている。
それが「無碍の一道」なんですね。
■ 今夜のひとこと
「障りがなくなる」のではなく、
「障りにならなくなる」――
それが無碍の道。
🌕
念仏の道を歩むというのは、
悩みがなくなることではありません。
むしろ、悩みも苦しみもそのまま抱えながら、
そこに“光”を見いだしていく道。
風が吹いても、波が立っても、
そのすべてを、阿弥陀の願いが包んでくださっている。
だから、今日も安心して進めるのです。
南無阿弥陀仏。