第6章

ある日のこと。

お寺に熱心なご門徒さんが集まって、口々に言い合っておられた。


「ワシは〇〇先生の弟子や!」

「いやいや、ワシはあの高僧の門下や!」

「うちは代々、このご法流でいってるんや!」


……とまあ、

ちょっとした“宗教プロレス”状態。

その場の空気を見かねた若い人が、ぽつりとつぶやいた。


「なんか、阿弥陀さんより“誰の弟子か”の話がメインになってませんか?」


……ごもっとも。


これ、実は昔からあった話なんです。

なんと親鸞聖人の時代にも、

「弟子争い」があった。

それに対して、

聖人はこうおっしゃっているんですね。

■ 「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」

「専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子、という相論のそうろうらんこと、もってのほかの子細なり。

 親鸞は弟子一人ももたずそうろう。」


──きっぱり。


「親鸞には弟子なんかおらん」


これ、ちょっと寂しいように

聞こえるけれど、

本当はとても深い意味があるんです。

■ 「弥陀の御もよおし」によって念仏する

親鸞聖人はこう続けます。


「わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。

 ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。」


つまり、「ワシが教えたから、この人はワシの弟子や」なんて言い出したら、

それはもう“荒涼”、むなしいことや、と。


なぜなら、念仏する心そのものが、

阿弥陀さまの“お招き”によって起こされるものだから。


「先生が上で、弟子が下」なんて話ではなく、

どちらも“如来のはたらき”に

導かれている。


そう考えると、師弟関係も

“横並び”になるんです。


■ 「自然(じねん)のことわり」にまかせる

親鸞聖人は最後に、

こう締めくくられます。


「自然のことわりにあいかなわば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなり。」


“自然(じねん)”というのは、

人間の思い計らいを離れた

「おのずからなるはたらき」のこと。


つまり、阿弥陀仏の大慈悲の流れに

身をまかせていけば、

やがて仏の恩も、師の恩も、

自然に知らされるのだと。

■ 先生も、弟子も、同じ「お念仏仲間」

私たちはつい、

「誰から教わったか」

「どの派に属しているか」

そんな“肩書き”で安心したくなります。


でも、親鸞聖人はその壁をスパッと超えておられた。


みんな、阿弥陀仏の光の下にいる。

「あなたの弟子」でも

「私の弟子」でもなく、

「如来の御弟子」。


そう考えると、

なんだかすっきりしますね。

お寺の派閥争いも、ちょっと可愛らしく見えてきます。

■ 今夜のひとこと

「師と弟子」も、“弥陀のご縁”の中にある。

🌾

師を敬うことと、

師に執着することは違います。

本当に師を敬うとは、その教えの源――

如来のはたらきを感じ取ること。


親鸞聖人は、自分を通して「私」を見てほしいのではなく、

「阿弥陀さま」を見てほしいと願っておられたのでしょう。


だから、弟子をもたず、名を残さず、

ただ念仏の道を歩まれた。


そして、その道の上に、今、私たちが立っているのですね。


南無阿弥陀仏。