第5章
あるご門徒さんがこんなことを言われました。
「うちの息子、仏壇には全然手を合わせへんのです」
理由を聞けば、息子さんはこう答えたそうです。
「おばあちゃん、いつも見てくれてるから。拝まんでも心はつながってる」
──便利な時代になりましたね。
どうやら“心のWi-Fi”のほうが、電波が強いようです。
けれども考えてみれば、手を合わせても心がなければ形だけになるし、
心だけでも何もしなければ、やっぱりどこか物足りない。
「親のために」という気持ちほど、難しいものはありません。
■ 親鸞聖人の“意外なひとこと”
そんな「親のために」という想いに、
親鸞聖人は驚くほどハッキリと、こうおっしゃっています。
「親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。」
――え?
親孝行の人だと思っていたのに、
「親のために念仏したことが一度もない」とは。
でもこれは、決して冷たい言葉ではありません。
むしろ、この上ない親孝行の心が込められているのです。
■ すべての命が「父母兄弟」
聖人は続けます。
「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。」
この世のあらゆる命は、
過去から未来にかけて、互いに親子・兄弟として結ばれている。
つまり「親のために」という祈りは、
やがて「すべてのいのちのために」という大きな慈しみに変わっていく。
「自分の親」だけを想うのではなく、
生きとし生けるものすべてに、恩を返していく道。
それが、親鸞聖人のいう“孝養”なのです。
■ 「念仏を回向する」という勘違い
「じゃあせめて念仏を回向して、
亡き親のために届ければいいのでは」と思うかもしれません。
けれども聖人は、静かにこうおっしゃいます。
「わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、
念仏を回向して父母をもたすけそうらわめ。」
もし念仏が自分の努力や功徳であれば、
それを誰かに回すこともできるでしょう。
しかし念仏は、自分の善ではない。
阿弥陀仏の大慈悲が、私をして称えさせてくださっているのです。
だから「私が誰かを救う」のではなく、
「仏のはたらきが、私を通して広がっていく」。
それが真実の“回向”なのです。
■ 「いそぎ仏になりて、まず有縁を度す」
そして、聖人は最後にこう結ばれます。
「ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、
六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、
神通方便をもって、まず有縁を度すべきなり。」
まず自らが仏となり、
そこから縁あるすべての命を救っていく。
「いそぎ仏になりて、まず有縁を度す」――
これこそが、究極の親孝行なのです。
■ 今夜のひとこと
“親のために”を超えたとき、
本当の親孝行が始まる。
🌕
親を想う心は、誰にでもあります。
けれども、その想いを「自分の力」で貫こうとすると、
どうしても限界がくる。
念仏とは、そんな私を超えて、
すべての命を包み込む力に出遇う道です。
「親のために」から「すべてのいのちのために」。
その心の広がりこそ、如来の大悲がはたらいている証。
今日もまた、阿弥陀さまの光のなかで――
南無阿弥陀仏。