第4章
人に優しくしたい。
困っている人を見たら、何とかしてあげたい。
それなのに、どうにもできない時がある。
助けたいのに助けられない。
分かってあげたいのに分かってやれない。
そんな無力感に胸が詰まる夜があります。
親鸞聖人は、その痛みをよくご存知でした。
そして、こう仰います。
「慈悲に聖道・浄土の
かわりめあり。」
慈悲にも二つある――と。
■ “自分で何とかしたい”慈悲 ― 聖道の慈悲
ひとつめは、「聖道の慈悲」。
これは、私たちがよく知っている優しさです。
「かわいそうに」「助けてやらなきゃ」と思い、
自分の力で相手を支えようとする。
人として自然な心です。
けれども聖人は言います。
「おもうがごとくたすけとぐる
こと、きわめてありがたし。」
思うように助けられることなど、ほとんどない。
――本当に、そうですよね。
子どもの悩みを全部取ってあげられない。
友人の苦しみを代わってやることもできない。
いくら祈っても病気は治らず、
いくら頑張っても世界の争いは尽きない。
優しさは、時に無力です。
だから「聖道の慈悲」には、始まりがあって終わりがある。
“できること”に限りがあるんですね。
■ “仏になる”という慈悲 ― 浄土の慈悲
では、もう一つの慈悲とは何か。
それが「浄土の慈悲」です。
「念仏して、いそぎ仏になりて、
大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益する。」
――つまり、「まず自分が仏になれ」と仰るんです。
え? 自分が仏? そんな大それた…。
と思うかもしれません。
でも考えてみれば、
水が濁っていれば月は映らず、
心が迷っていれば、ほんとうの慈悲も届かない。
だから、阿弥陀仏の本願に身をまかせ、
念仏して「いそぎ仏に成る」。
そうして初めて、私たちは
“思うがごとく人を利益する”力をいただくのです。
■ 「すぐ役に立たない優しさ」に意味がある
今生(この世)での慈悲は、どうしても途中で途切れます。
「どうにもできない」ことが、必ず起こる。
親鸞聖人は、そんな現実をこう見抜きます。
「今生にいかに、いとおし不便と思うとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。」
この世の慈悲には、始まりも終わりもある。
だからこそ、念仏して仏となる道にこそ、
“終わりなき慈悲”があるのです。
私たちの優しさは不完全でいい。
だって、阿弥陀さまがその続きを引き受けてくださるのだから。
■ 今夜のひとこと
「優しさに限界がある」ことを知った人が、本当の慈悲に出遇う。
🌕
人の心でできることには、どうしても限りがあります。
でも、念仏の道に生きるとき、
その“限り”を超えた大慈悲が、
私たちを通して働き始める。
「すえとおりたる大慈悲心」とは、
尽きない優しさ。
人間の力ではなく、仏の光そのもの。
泣きながらの思いやりも、
ため息まじりの祈りも、
すべてはその光に抱かれているのです。
南無阿弥陀仏。