「往生」と聞くと、多くの人は“死ぬこと”を思い浮かべます。

けれども、親鸞聖人はそうは仰いません。


「往生とは、この私が仏に成っていく“いのちの歩み”である」

つまり、往生とは“死んでから”ではなく、

“いま”から始まっているんです。

■ ご利益とは、「自在」を生きること

浄土真宗のご利益とは、

お金が儲かるとか、病気が治るとか、

そういう現世利益の話ではありません。


真宗の“ご利益”とは、

「自在を得ること」――縛られない心で生きること。

人はみな、縛られています。

世間体に縛られ、他人の目に縛られ、

そして何より、自分自身に縛られています。

けれども、仏の光に照らされて、

“自分中心の執われ”を超えるとき、

そこに初めて「自在」が生まれる。

それこそが“ご利益”なんです。

■ 「心命終」――心の命が終わるとき

親鸞聖人は、“いのち”を二つに分けて考えました。


ひとつは「心命(しんみょう)」――心のいのち。

もうひとつは「身命(しんみょう)」――体のいのち。

心命が終わるとは、

“自分中心の命が終わる”ということです。

「こうあるべき」「自分が」「私が」――

そんな心の頭が垂れるとき、

阿弥陀仏のはたらきが入り込む。

それが「心命終」。

この瞬間から“往生の生活”が始まる。

これを「即得往生(そくとくおうじょう)」といいます。

「往生即成仏」とは、

往生の道そのものが成仏の道。

“いま”生きながらにして、

仏になる方向へ歩み出しているのです。

■ 「正定聚」という確かな身

信心をいただいた人は、

「正定聚」と呼ばれる身になります。


それは、“必ず仏になることが決まった人”のこと。

まだ煩悩まみれであっても、

方向はもう決まっている。


たとえるなら、

暴風の中でも、ちゃんと風上を向いて歩けているようなもの。

転んでも、立ち上がる場所がもう定まっているんです。


これが、この世における真のご利益。

■ 「身命終」――身体が終わるとき、完全な自在へ

けれども、心の縛りを解かれても、

身体の縛りは残ります。

老い、病、苦しみ、怒り――

この肉体を持つ限り、煩悩はついてまわる。


だからこそ、親鸞聖人は仰います。


「この世では仏に成れない」


それは嘆きではなく、現実の受け止め。

この身体がある限り、完全な自在――つまり“成仏”はまだ。


けれども、

「身命終」と同時に、必ず滅度(めつど)に至る。

滅度とは、煩悩を滅して、悟りの世界に渡ること。


この肉体のいのちが終わるとき、

その人は、もう完全に仏となるのです。

■ いま決まる未来 ― 二世のご利益

真宗は「二益(にえき)」の教えを説きます。


・今この身にいただく利益 ― 「現益」

・命終わってからの利益 ― 「当益」


心命終によって、いま“仏になる身”が決まる。

そして身命終によって、その決定が完全に花開く。


だから、「死んだら仏」ではなく、

「いま仏になる身」になることが大事なのです。


■ 今夜のひとこと

“往生”とは、死ぬことではない。

生きながら、仏に成っていく

道のりである。

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信心をいただくとは、

「我」を脱いで“如来に抱かれて生きる”ということ。


怒りも欲も妬みも、

なくならなくていい。

そのすべてを抱えて往く私を、

阿弥陀さまは丸ごと照らしてくださる。


そうして歩む「往生のみち」。

そのはじまりが「即得往生」、

極まりが「難思議往生」。


今日もまた一歩、

この娑婆で“仏になる”道を歩かせていただくのです。


南無阿弥陀仏。