第3章
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
親鸞聖人のこの言葉、あまりにも有名ですが、
世間ではしばしば逆に理解されています。
「悪人ですら救われるなら、善人はなおさらだ」――
まるで「悪い人でも大丈夫」という“おまけの救い”みたいに思われがちですが、
親鸞聖人の言いたかったのはまったく逆。
実はこの一句、**「悪人こそ、阿弥陀さまの本命」**なのです。
■ 「悪人も助かる」ではなく、
「悪人をこそ助ける」
聖人はこう仰っています。
「煩悩具足のわれらは、
いずれの行にても、
生死をはなるること
あるべからず。
これをあわれみたまいて、
願をおこしたまう本意、
悪人成仏のためなり。」
つまり、阿弥陀仏が本願を立てられたのは、
「どうやっても自分では助かれない者」――
つまり悪人を救うため。
善人が救われるのは、言わば“ついで”なのです。
だからこそ、
「善人ですら往生するのだから、まして悪人は」
と聖人は言い直された。
このひっくり返しが、浄土真宗の真骨頂なんですね。
■ 「悪人」の定義は、道徳とは違う
では、その“悪人”とは誰のことか。
犯罪者や不道徳な人のことではありません。
仏の眼から見れば、
どんな立派な人も「煩悩具足」。
怒り、妬み、嘘、慢心――
それらを一つも持たない人はいません。
「自分の力でなんとかなる」と思う心、
これを“自力心”といいます。
この自力の心が離れぬかぎり、
善行もまた、仏の願いからはずれていく。
だから聖人は、
「自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、
弥陀の本願にあらず」と言われるのです。
■ 善人は“頼ること”が下手
落語的に言えば――
善人は「自分で歩ける」と思ってる人。
悪人は「もう歩けん、抱えてくれ」と言える人。
お釈迦さまから見たら、「自分で歩く」と言って泥に沈む善人よりも、「助けてください」と手を挙げる悪人のほうが、救いやすいに決まっている。
だからこそ、
悪人こそ往生の正因(しょういん)――
つまり「救いの中心」にあるのです。
■ 「わたしのための本願だった」
阿弥陀仏の本願は、
「罪悪深重の衆生をたすけんがため」。
この“衆生”というのは、
他の誰でもなく、“私”のこと。
「わたしほど愚かな人間はいない」――
そう知らされたときに、初めて仏の光が差し込む。
信心とは、心を立派にすることではなく、
“立派になれない自分”にうなずくことなのですね。
■ 今夜のひとこと
仏は、立派な人を探しておられ
ない。
助けを求める声を、待っておら
れる。
🌾
「悪人」とは、自分の手ではどうにもならないと知った人。
だから、悪人が救われるというのは、
人間の終着点ではなく、出発点なんです。
「わたしのような者をこそ救う」と聞こえたとき、南無阿弥陀仏の声は、遠い彼方ではなく、今ここに響きます。
南無阿弥陀仏。