熊さん:

「八っつぁん、浮かねえ顔してどうした?」

八っつぁん:

「なんだか、うまく生きられねえんだよ。みんな軽やかに笑ってるのに、オレだけずっと胸が重い。」

熊さん:

「そりゃ、“生きづらさ”ってやつだな。」

八っつぁん:

「治る薬、ねぇのかい?」

熊さん:

「あるけど、苦いぞ。『自分を責めすぎない』っていう薬だ。」


■ みんな、どこかで息切れしてる

SNSを開けば、誰かが楽しそうに見える。

テレビをつければ、立派に生きる人が映る。

でもね、みんな同じところで息切れしてる。

「自分だけが遅れてる」ように感じるのは、

自分の痛みを一番近くで見ているから。


生きづらいのは、心が繊細だから。

ちゃんと痛みを感じられるほど、

他人の悲しみも分かる人だから。


■ 八っつぁん、猫に教わる

八っつぁん:

「熊さん、あそこの猫、えらい図々しいな。店先で寝とるじゃねぇか。」

熊さん:

「あれでええのよ。あいつは“居場所”の天才だ。自分を責める前に、日なたを探すんだ。」

八っつぁん:

「……オレも、少し寝転がってみようかな。」

熊さん:

「そうそう。日陰に無理して立っとるから冷えるんだ。」


■ その「苦しさ」は仏の呼び声

親鸞聖人は「煩悩成就の凡夫」と言われた。

つまり、迷いも弱さも、そのまま抱えて救われていく存在だということ。

「苦しい」と感じること自体が、

仏さまからの「こっちへおいで」という呼び声なんです。


生きづらさを“なくそう”とするんじゃなく、

そのまま抱えながら、「それでも生かされている」と気づく。

それが、仏法のまなざし。


■ 熊さんのしめくくり

熊さん:

「八っつぁん、生きづらいってのは、生きてる証拠だ。石ころは苦しまねぇ。人間だけが悩むんだ。」

八っつぁん:

「……でも、たまには笑いたいな。」

熊さん:

「そんときゃオレが酒持ってくる。笑えなくても、飲めばいい。」


■ 今夜のひとこと

生きづらさを抱えたままでも、ちゃんと

“生かされている”。


心が凍える夜にも、

あなたのいのちは静かに息をしている。

それだけで、充分尊い。


阿弥陀さまは、

「立派になったら救う」なんて一言も言っていない。

「泣きながらでも、笑えなくても、

そのままのあなたを抱いて離さない」と誓われた。


🌙 今夜は、無理に元気を出さなくて

いい。

ただ、「南無阿弥陀仏」とひと声。

それだけで、あなたの呼吸は仏の息と

重なる。