夜になると、どうにも心が落ち着かない。
明日のことを考えると眠れない。
「このままでいいのか」
「何かしなきゃ」──
頭の中で誰かがずっと喋ってる。
でもね、焦りって、心の中の“風”みたいなものなんです。
止めようとすると、かえって強く吹く。
だから、そよ風に変わるまで、ただ座って待てばいい。
■ 八っつぁん、寝れぬ夜
八っつぁん:
「熊さん、オレ、寝ようと思うほど眠れなくなるんだよ。」
熊さん:
「寝ようと思うから眠れねぇんだ。」
八っつぁん:
「じゃあ、どうすりゃいいんだ?」
熊さん:
「起きてりゃいい。」
八っつぁん:
「え、逆転の発想?」
熊さん:
「焦りは敵にすると強くなるが、友達にすると静まるのさ。」
■ 坐禅の心は「動かないこと」じゃない
“坐禅”っていうと、
「無心になれ」とか「雑念を消せ」と言われがちだけど、
本当は“消す”ためのものじゃない。
ただ、“見つめる”ための時間なんです。
「焦ってるなあ」「心が走ってるなあ」
そう気づけた瞬間、もう焦りに飲まれていない。
坐禅とは、心の状態を実況中継する時間。
■ 熊さんのひとこと
熊さん:
「八っつぁん、焦るってのは、心が未来に先走ってる証拠だ。」
八っつぁん:
「未来に?」
熊さん:
「体は“今”にあるのに、心だけ“明日”を走ってる。」
八っつぁん:
「なるほど、それで足がもつれるのか。」
熊さん:
「そう。だから坐禅ってのは、心を体のいる場所に戻す稽古なんだよ。」
■ 「今」を取り戻す呼吸
焦りを鎮めるのに、むずかしい理屈はいらない。
ただ、息を一つ、深く吸って、吐く。
吸う息は、「生かされている」証。
吐く息は、「委ねていく」練習。
南無阿弥陀仏という六字の名号も、
吸って、吐いて、ひと息のうちにある。
だから仏法の道は、“呼吸の道”でもあるのです。
■ 親鸞聖人のまなざし
親鸞聖人は、「自力をすてて他力をたのむ」と説かれた。
焦りとは、「自力の心」が暴れている証。
思いどおりにしよう、早く結果を出そう、
そういう思いが強ければ強いほど、心は苦しくなる。
けれども、
「焦ってる自分も、もう仏の光の中にある」
と知ったとき、
努力が力むものから、祈りに変わる。
■ 夜の静けさに抱かれて
夜は、焦りを包むためにある。
明るい昼間には見えない“心の声”が、
夜にはちゃんと聞こえてくる。
だから、焦る夜は悪くない。
静けさの中で、
あなたの心は“戻るべき場所”へゆっくり帰っているんです。
■ 今夜のひとこと
焦りは、仏の呼吸に追いつこうとする心の足音。
追いつかなくていい。
ただ、そこに座って、息をしていればいい。
南無阿弥陀仏──
その六字に、焦りも迷いもぜんぶ抱かれている。
だから今夜は、焦りを置いて、
心を体のいる“いま”へ戻してあげましょう。
明日はまだ、来ていません。
でも、明日を生きる力は、もう息の中にあるんです。